『日本ヘラルド映画の仕事』 谷川健司

フィルムセンター図書室に行くと、この本が展示してあったので、すぐに注文する。

今や角川グループに吸収されてなくなった日本ヘラルド映画だが、その軌跡は非常に興味深い。

多分、中学1年ごろだと思うが、ラジオの映画宣伝の番組でその社名を聞き、私は二番目の姉に

「日本ヘラルド映画って、外国のヘラルド映画の日本支社なの?」と聞いたことがある。

すると、演劇や映画にく詳しかった銀行のOLだった姉は、

「ヘラルド映画と日本シネマコーポレーションという会社が一緒になっって、日本ヘラルド映画ができた」と教えてくれた。

当時から非常に変な子供だったのだね、私は。

この本に出ている日本ヘラルド映画の軌跡は非常に面白い。

名古屋で映画館を経営していた古川氏は、映画興行へと進出するため、まず欧米映画配給社という名古屋にあった零細な会社を買収する。ここは、実は数本の映画を持ち、地方に巡回上映するような会社だったそうだ。

そこから、中小の映画輸入・配給会社を次々と買収してゆく。

一方、左翼独立プロ作品の配給や制作を担当していた北星商事、新星映画は独立映画になったが、『異母兄弟』で力尽きてしまう。

そこが大洋商事という形で所有していたソ連映画の輸入権を引き継ぐ形で、大洋商事はヘラルド映画に吸収され、同時に宣伝担当の原正人氏らも移行する。

そして、1961年に名門のNCCと合併して日本ヘラルド映画ができたのである。

その後、作品についてみれば、多くの話題作のほとんどが、ヘラルドのものであり、本当に驚く。

『わんぱく戦争』『小さな恋のメロディ』『昨日、今日、明日』などなど。

そして、アランドロンもの『さらば友よ』『サムライ』『『地下室のメロディー』

この『地下室のメロディー』では、東和、松竹映配との間で競争があり、ヘラルドが落札したが、東和から横やりが入り、当時東京第一フィルム社長の曽我正史氏の調停で、三社共同配給になる。

そして、1975年『エマニュエル夫人』の大ヒツトを産む。上映権以外の全部の権利込みで2,000万円で買った作品で15億円も売上げたのだから、すごいというしかない。

エロも、ヘラルドの得意技で、『世界浴場物語』や『エロチコン』などは題名だけで笑ってしまう。

メジャー以外の米国作品もあり、『悪魔のいけにえ』や『ジョニーは戦場に行った』もヘラルドだった。

特に後者は、シナトラの関係者が税関を経ず、手荷物で持込んだ映画を試写して公開を決めたというのは、小企業ならではの即断である。

『乱』はともかくとして、映画『デルス・ウザーラ』をソ連の製作で、黒澤明の復帰を作り出したのは、1950年代からの日本ヘラルドのソ連映画の輸入以来の人脈だったのは素晴らしいことである。公開当初は、必ずしも高い評価ではなかったが、『デルス・ウザーラ』は、東洋と西欧の対立、さらに環境問題の提起と、私は高く評価している映画である。

よくできた本だが、一つだけ文句がある。

それは、日本ヘラルド映画の最初を1959年のポーランド映画『影』としていて、それはそうなのだろうが、もう1本、アラン・レネの『夜と霧』もあったことが抜けていることだ。

私は、これを蒲田国際で見ているが、その時は日本ヘラルド映画のタイトルに、欧米の映画会社のようなテーマ曲があったと記憶している。

結構、きちんとした交響曲風のものだっったが、その後は使われなくなったようだ。

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