お台場で運動会 

昨日は、夕方に関内で神奈川の県立図書館を考える会の定例会があり、終了後は中華街でいつもの懇親会で、離島経済新聞の方とお会いした。

これは、島根県隠岐西ノ島に図書館を設置するため、2か月間の司書講習を修了された真野理佳さんのお祝いを兼ねたもので、関連の方として離島経済新聞の大久保さんと松本さんのお二人が参加されたのである。

離島新聞のお二人と話していて、私は離島に行ったことがないのに気づいた。

島に行ったのは、1961年にお台場に行ったことだけである。

竹芝桟橋から船で、当時の第何お台場に行ったもので、それは劇団俳優座の後援会の運動会だった。

当時、私の姉は東京の某銀行の行員だったが、新劇のファンで俳優座後援会の会員だった。俳優座などは、会員を非常に大切にしたもので、運動会をやったのである。

当時、お台場には大きな城郭が残っていて、真ん中の公園で運動会が行われたのである。

男優の横森久の司会で、会は進行し、何をやったかは全く憶えていないが、横森がいい声だったことと、女優の岩崎加根子が一人静かにいて、「きれいだな・・・」と思った。

姉に聞くと、岩崎はいつも一人で静かにしていたとのことだった。

砂浜では潮干狩りもでき、貝を沢山家に持って帰った。

この俳優座後援会は、1970年代に解散されて、俳優座には制作センターというものが作られて、地方公演等を取り仕切るようになる。

このセンター設置の中心は、市原悦子の夫塩見哲で、彼の座内での行動は1970年代の俳優座の混乱の最大の原因を作り出したのである。

一般に俳優座の混乱、団員の集団離脱は、中村敦夫が黒幕と言われていたが、本当はそうではなく塩見哲だったのだ。

その理由は、後に千田是也も気づいたが、京都大学を出て俳優座に入ったものの、千田は塩見に一度も演出をさせなかったのだ。その積年の恨みというか、思いを遂げようと塩見は、制作センターなるものを作り、劇団全体の権力を握ろうとしたのだ。

だが、これは大失敗で、直前の小沢栄太郎の退団もあり、観客が大幅に減り、塩見も妻市原悦子らと退団することになる。

塩見は、2004年に石川淳原作の『狂風記』を市原悦子の主演で品川のアートスフィアで演出したが、世にもひどい出来だった。

20年遅れのアングラ劇という感じで、本当に唖然としたが、その後塩見は、市原の音楽劇の演出をやっていたようだが、まあ髪結いの亭主だったわけだ。その意味では、塩見哲に演出をさせなかった千田是也の目は正しかったことになるだろうが。

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