加藤君、おめでとう

                                    

ここには個人的なことは書かないことにしているが、慶事なので、書いておきたい。

今日の新聞には、秋の叙勲が載っているが、二人知り合いの名を見つけた。

森川裕也氏で、もともとは横浜市の経済局にいた方だが、鶴見区長で退職された方で、87歳とある。もうそんな年なのかと思う。

もう一人は、70歳の中田尭久君で、元県議となっている。

彼は、私が横浜市に入ったとき、市会事務局の1年先輩で、委員課の担当書記だった。

だが、2年ほどして横浜市を辞めて、パリに行った。当時は、中田尭久の名だった。

なぜ、名前が変わったかと言えば、パリ行きとも関係していて、高校時代からの女性と付き合っていて結婚しようとしたが、その女性が一人娘で、「加藤家に養子に入れ」と言われて断り、悩んでいた末だったとのことだった。

「へえ・・・」と思い、私なら養子も何も拘らないのにと思ったものだ。

日本に戻ってきて、少し商社に勤めたようだがそこが不景気でだめになり、自民党の横浜市連事務局に勤務することになる。

彼が委員課の書記時代に、一番可愛がってくれたのが、松村千賀雄市議で、当時松村先生は自民党横浜市連の幹事長だったので、事務局に入れてくれたのである。

そして、加藤家に婿入りして加藤尭久になった。

自民党の市連事務局長になってからの加藤君は、大変に目覚ましい活躍で、それまでほとんど自民党から横浜市や区への要望などなかったが、各種団体と議員団との協議を基礎に、要望を毎年するようになった。

横浜市側では、「あいつが来た性でうるさくなった」と言っていた。

そして、彼に転機が来たのは、1994年に分区で都筑区ができた時だった。

当時、分区された都筑区を地盤とする自民党の県会議員はいなくて、ネットの女性議員がいて、結構選挙に強い方だった。

分区されて初選挙とのことで、誰かは出さないとまずいとのことだったが、誰も出ず加藤君が出ることになった。

もともと、彼の父親は、磯子区で民社党で市会議員選挙に出たことがあり(当選はしなかったようだが)、議会への意欲はあったようだ。

当時、都筑区の県議会議員の定数は1だったが、見事当選されて2期続けた。

だが、3期目には自民党系の無所属だった敷田議員に負けて落選した。

その頃、私は緑区にいて、自民党の関係議員に彼がなぜ落ちたのか聞いてみた。

すると「態度が非常に悪い」とのことだった。実際に会ってみる、たしかに相当に肥満していて「不動産屋歩き」で堂々とされた態度だった。

落選後も何度か出たが、いずれも議員復帰はできなかった。

その後、どうされていたかは知らないが、今回旭日双光賞を見事ご受賞されたことは誠に喜ばしいことである。

ご受章をお祝いしたい。

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