非常に面白いが、根本に間違いがあると思う

午前中は、寒いので家にいて、「町山智浩が語る20世紀名作映画講座「七人の侍」(後編) 」をネットで見る。春日太一との対談で、「午前10時の映画祭」の後に話したもので、興味深い挿話の紹介があるが、根本に間違いがあると私には思えた。

それは、「黒澤明の家が裕福だった」としている点で、確かに彼が小学校2年までは裕福だった。

だから、彼も兄丙午、姉百代も、金持ちの子女が通う品川の森村学園(今は大マンションになっていて、かつては山口百恵・三浦友和夫妻も住んでいた)に行っていた。だが、彼が小学2年の時、突如彼と兄丙午は文京区の黒田小学校に転校する。

なぜか、理由は簡単で、彼らの父親の黒澤勇氏が失業して無職になったからである。

勇は秋田の出身で陸軍に入り戸山学校(今の自衛隊体育学校)の教員だった。だが、碌に学歴も係累もない黒澤勇氏が、陸軍で出世することはあり得なかった。

そこで彼は、先輩の山師のごとき男、日高藤吉郎(藤吉郎と言う名が笑えるではないか)に従い、彼が作る日本体育会(現在の体協とは無関係)と日本体操学校に入り、日高に次ぐナンバー2になる。この体操学校は、いろいろ経緯があるが、単純に言えば日体大になる。今も、日体大の理事と言えば、年収数千万のはずで、黒澤勇氏も高給を得ていたと思う。黒澤明の生地は、東大井だが、これは当時体育学校教職員の宿舎があったところである。

だが、大正3年の大正博覧会に日本体育会もパビリオンを出すが、大赤字になってしまう。この時、「経理に不正があったではないか」との嫌疑で、担当理事だった黒澤勇氏は日本体育会を首になってしまう。

当時は、生活保護の年金もない時代、特に資産のなかった黒澤家は、途端に貧乏になる。

黒澤明が、中卒後、芸大に落ちてプロレタリア美術連盟に参加し、日本共産党の非合法活動にまで行った原因も、このいきなり家が貧困になってしまう社会の不条理にあったはずである。

彼と黒澤家を救ったのは、活動弁士になっていた兄丙午である。

丙午は中学時代から映画少年で、「キネマ旬報」に投稿したり、映画館のパンフレットを書くなどしており、近所にいた山野一郎の紹介で洋画の活動弁士になり、高給を得ていた。

だが、この兄は、ドンファンで妻子がありながら、女給と情死してしまう。また、サイレントからトーキーへの移行の時に、弁士や楽士のストライキの委員長をやり、それは一応成功したが、弁士らと会社側との板挟みになっていたことも、原因の一つだったようだ。

兄の庇護がなくなり、黒澤明は、26歳の時、PCLの助監督募集に応募し、合格する。

この時、黒澤は、試験官から嫌がらせの質問を受けたと書いている。

だが、このPCLの責任者森岩雄は、映画投稿少年だった黒澤丙午の親友であり、その弟が受験に来たら入れてやるのが人情というものだろう。「出来レースの合格」に担当課長が反発したと考えるべきだろう。

この受験の時、監督の山本嘉次郎は黒澤の背広やワイシャツがボロボロで、姿は貧乏そのものだったと書いている。このように若き日の黒澤は、決して裕福ではなかったのである。

さて、そのように貧困のドン底にいた黒澤明は、大変に努力して日本を代表する大監督になった。

だから、彼に下層の者への同情がないのは当たり前である。

「俺は、貧乏だったが、努力して現在の地位になった。お前たちも努力すれば良い」と言うのが黒澤の考えで、『天国と地獄』で下層の学生だった山崎務が否定的に描かれているのはそのためなのだ。

また、黒澤の作品で一番不可解なのは、映画『悪い奴ほどよく眠る』で、彼に社会意識などないはずなのに、下級役人が汚職に罪を上司に着せられる話を異常に力を入れて描いていることである。

これも、黒澤勇氏が、首になった事件が「冤罪」だったのではないかと考えれば理屈に合う。と言うのも、当時の新聞によれば、警視庁は黒澤勇氏と同時に、日本体育会総裁だった閑院宮家の家令を取り調べているからである。総裁とはいえ、名前だけだったはずの宮家の家令を取り調べるなど、余程の問題と証拠がない限りあり得ないはずだ。と考えれば、宮家の経理の何らかの問題を、日本体育会の赤字と黒澤勇氏に押し付けたともいえるのではないか。

その証拠に、日本体育会は首になっているが、黒澤勇氏は、その後も同会から臨時の事業委託を得ているからである。もし、本当に勇氏に不正行為があったとすれば、同会から事業委託をえることはあり得ないからである。

以上のことは、拙著『黒澤明の十字架』、さらに『小津安二郎の悔恨』に書いたことだが、良く知られていないので、あらためて書いておく。

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