侍ジャパンは卑怯か

サッカーのワールドカップで、日本チームは決勝トーナメントに進出したが、対ポーランド戦の終盤で、パス回しで時間稼ぎをしたのは汚い、卑怯、サムライらしくないとの意見があるようだ。

だが、多くの方は誤解されているが、「武士道精神」なるものは、江戸中期の平和になってから生まれたことで、それまでは正々堂々と戦うことがサムライの精神だなんて誰も思っていなかった。本当に生死を賭けた戦いだったら、卑怯もなにも、勝つことが第一だったからである。

源平合戦の宇治川の先陣争いも、かの有名な宮本武蔵の一乗寺の決闘にしても、よく考えれば卑怯な戦い方である。佐々木小次郎との巌流島の戦いも、武蔵は策を弄して小次郎に勝つ。

だが、自らの命が掛った戦いでは、どう批難されようと勝つことが重要だったのは当たり前である。

それが、徳川幕府の平和な時代になると、精神主義が生まれて来て武士道精神となったのである。仇討禁止も、家と侍の精神だったとしても、それを認めると無限に仇討が続くことになるので、幕府は禁止したのである。

だから、そうした中で、赤穂浪士の義挙が庶民レベルでは讃えられたが、幕府は当然のこととしてこれを否定し、切腹を命じたのだ。

サムライ精神も、時代の中で生まれたものなのであることは忘れてはならない。

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