「やはり、マスコミはテレビ以前にも成立していたのではないか」 今野勉先生

日曜日は、市川の千葉商科大学に行き、日本映像学会の研究会、ドキュメンタリードラマ研究会に行く。

私は映像学会の会員ではないが、なぜか以前にメールが来て、今回は、ドキュメンタリードラマの開祖の今野勉氏が来るというので、市川まで行った。

市川は、三遊亭円朝の『粟田口』にも出てくる場所で、京成線の国府台駅で降りてバスで行く。そこは、和洋女子大と商科大が建っていて、桜の名所のはずだが、季節が違う。

最初は、佐々木守がシナリオを書いて、脱ドラマとして話題となった朝日放送の『お荷物小荷物』についての丸山友美さんの発表。佐々木は、元は『記録映画』という記録映画作家協会の機関誌の編集長で、私は武蔵小山の本屋で毎月購入していた。『お荷物小荷物』は、かなり見ていて私は面白いと感じたが、横浜市の職員連中には不評で「なんだ、これは」と言われたものだ。

小さい時から、ラジオ、テレビが好きだった私は、TBSのディレクターの今野勉の名を知っていて、彼が匿名で監督した国映のピンク映画『裸虫』も、高校2年で本当は18歳未満お断りなのだが、鵜の木の映画館で見た。正直言って、主役の女の子が不細工であまり面白くなかったが、今野先生の話だと、2週間ほどTBSを休んで撮ったとのこと。今では、DVDも出ているそうだが、匿名で撮ったので、DVDの報酬は貰っていないようだ。

昼を挟んで、今野の『遠くエ行きたい・伊那谷の冬』『天皇の世紀・最終回』、そして『火の国の女 髙群逸枝伝』が上映された。特に、最後のドラマは、1977年に国際女性年か何かで、総務省が女性のドラマを作りた言っていると脚本家の大津晧一が聞いてきて、TBSからテビマンユニオンに委託があったもの。原盤は、TBSにもテレビマンユニオンにもなく、今回はビデオからのもので上映。

日本の女性史の先駆けというべき高群の一生を渡辺美佐子、米倉斉加年、それに出版社の編集者でナレーターの草薙高次郎の3人で演じる。高群は、本当に凄い人で、特に歴史学の知識がなかったのにも関わらず、昭和6年に『古事記』を唯一の手掛かりに日本の女性史の研究を始める。現在では、批判もあるようだが、彼女の著作は大変なもので、当時天皇制下の日本社会で、日本の古代が母系性だったことを言ったのは、非常に恐れ多いことだったと思う。

母系性は、日本の社会の基本であり、それは平安時代の天皇家から、今日のサザエさんに至る庶民世界では一貫している。

研究会終了後は、市川駅近くで懇親会。その席でいろいろとお聞きしたが、中で今野先生から、「マスコミとして新聞、ラジオ等があったと言われるが、実はその購読、聴取者は10%くらいと非常に少なく、本当にマスコミとなったのはテレビが最初なんだよ」と言われた。

確かに実数としてはそうだが、新聞には新聞閲覧所、ラジオには全国に放送塔があり、購読や聴取者以外の多数の人間が新聞、ラジオに接していたのである。

確かに、有料で個々の人間がメディアの情報に接するようになったのはテレビが最初だと思う。

だが、日本ではメディアの普及を目的に有料以外の方法がぞんざいしたのである。

テレビでは、街頭テレビが有名で、日本テレビの正力松太郎の発明にように言われているが、戦前から日本放送協会は、全国各地に放送塔というのを作り、無料で番組を聴かせていた。また、永井荷風の日記を見ても、ベルリンオリッピックの「前畑がんばれ」を銀座で聴いたと書いている。

このように各種のメディアに対して無料で接する手段はあったので、テレビ以前にマスコミは成立していたのだと私は思うのだ。もちろん、テレビの威力は格段の差があったことは間違いないが。

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