令和の男菅義偉官房長官だが、彼に市会議員を降ろされた方がいる。鈴木喜一さんである。
今や、菅義偉官房長官は、安部政権の中心であり、誰も敵わない「影の首相」である。そして、彼に横浜市西区の市会議員を引きずり降ろされた方がいる。元市会議長の鈴木喜一さんで、私は1979年4月から2年間彼の議長秘書として彼に仕えた。鈴木先生は、西区の生まれで、家はあまり裕福ではなく、真面目で親孝行の喜一氏は、交通局市電の運転手になって金を貯めた。当時、横浜の市電の運転手の給料はかなり良かったそうで、親には家を建ててあげ、自分はリッカー・ミシンの代理店の権利を買って、商売を始めた。と同時に、横浜市議会の院外団で活躍した。当時横浜の市部では民政党が強く、郊外の農村は政友会の地盤だったので、民政党の院外団だっただろうと思う。議長時代も、横浜の河合ボクシングジムの後援会長もやっていたので、格闘技に関係があったのかもしれない。先生は片目が不自由だったが、それは剣道で負傷されたといっていたので、院外団の若手として格闘技もやっていたのかもしれない。そして戦時中に横浜の市会議員選挙に出て西区で当選される。西区は、当時は人口が多く議員の定数も多かったそうだ。戦後は、保守系の議員として自民党の衆議院議員藤山愛一郎の系列に属し、後に政治評論家になった、藤山事務所にいた飯島清氏などは、「鈴木先生、鈴木先生」と先生をかなり偉い人のように扱ってい、市会議長室によく来ていた。議長の時に、私は先生に連れられて藤山事務所に行ったことがある。横浜市港湾局長から、港湾行政についての感謝状を藤山先生に贈呈するためで、赤坂の藤山事務所に行った。場所は、後に火事になったホテルニュージャパンで、その奥のずっと上にマンションがあり、そこに藤山先生の事務所があった。中国関係の蔵書も多数あり、さすがに藤山先生だなと思ったものだ。
鈴木先生は、人は悪くないのだが、世渡りはあまり上手ではなく、特に当時横浜市の自民党のボスだった鶴見区の横山健一氏とは「犬猿の仲」だった。1975年4月、川口正英議長の次の議長は、自民党の年功序列から言えば、鈴木喜一先生だったのだが、横山先生は「飛鳥田市政に対して自民党は完全野党を宣言する!」として議長のポストを放棄した。その結果、社会党の大久保英太郎氏が市会議長になり、1979年まで4年間務めることになってしまった。「完全野党云々・・・」は、ただの建前で、横山氏の本音は鈴木喜一に議長をやらせたくなかったのである。ここには横山氏と大久保氏の議員野球団を通じての仲もあり、横山氏は監督、大久保氏は主将で、後に大久保氏の奥さんが交通事故で亡くなられた時、大久保氏は、後妻を横山氏に世話してもらったというほどの良好な人間関係だったのであり、自民、社会との党派性は関係ないのだ。まあ、人間の好き嫌いは本当に恐ろしい。そして鈴木先生は4年間我慢し、1979年に先生は待望の市会議長になることができ、予定通り2年勤めて、金沢区の相川藤兵衛さんにバトン・タッチした。この時、すでに70歳は過ぎていて、本人も次男に自分の政治活動を手伝わせていて、後を継がせて、自分は引退するつもりだった。長男は、某百貨店の課長で政治に出る気はまったくなく、次男は印刷屋をしながら先生の後を継ぐ準備をしていた。ところが、議長の任期途中の終わり頃、次男の方は40歳くらいだったのだが、磯子駅近くのマンションで急死してしまった。そして、自民党横浜市連では、鈴木喜一さんの引退は織り込み済みだったので、後継として小此木彦三郎衆議院議員の秘書をやっていた菅義偉氏を西区の市会議員の候補として決めてしまっていた。この時の鈴木先生の行動は大変に興味深いもので、菅氏を西区の市会議員候補として決めたのは、実際は当時自民党横浜市連会長だった小此木彦三郎先生なのだが、上下関係の強い自民党では、鈴木先生は親分の一人の小此木先生に逆らうことはできない。そこで、鈴木先生がターゲットに選んだのは、西区の斉藤達也県議会議員だった。確かに形式的に言えば、西区の市会議員候補を決めたのは、西区の自民党の代表だった斎藤氏だったのである。「斎藤はけしからん、斎藤は絶対に落としてやる!」として、市会ではなく、県議会議員の選挙に無所属で出たのである。実は、斎藤達也氏は、昭和30年代に市会議長を4年間勤め、行政視察に愛人を連れてきたという伝説の大物議員津村峰男氏の愛人の子であり、女性関係には潔癖だった鈴木先生は、その点でも不愉快だったのかもしれない。すると日本人には、妙な判官びいきがあるもので、鈴木喜一先生は斎藤氏を破って当選されてしまった。そして、県議会議員を無事4年勤められた。本当は、これで止めればよかったのだが、なぜか次の県議会議員選挙にも出て、今度は当然に落ちた。そして亡くなられたのは、間もなくのことであった。人の人生には運が結構関係あるものだと思ったものだ。
菅義偉官房長官は、今後年号のことが話題となるとき、必ず出てくるだろうが、鈴木喜一といっても、横浜市民も誰も知らないに違ない。