1950年代のことだが、私の母の実家は鶴見区の矢向で、休みの日によく遊びに行った。
矢向は、川崎市と隣接していて、道路を挟んで、こちらは横浜市だが、向こうは川崎市といった地域があった。
もともと、鶴見の大部分は、横浜市ではなく潮田町などで、1927年の合併で横浜市に編入されたエリアだった。
また、国鉄の南武線の矢向と尻手が駅だが、南武線は川崎に行っているので、横浜市域の意識はきわめて希薄だった。
当時、驚くことに道路の舗装が、きちんと舗装されているところと、未舗装の部分があった。
そして、舗装部分は川崎で、未舗装部分は横浜市だった。
その理由は、川崎市は、日本鋼管等の大工場があるほか、競輪事業をやっていて財政が豊かだったので、道路舗装にまで予算を仕えたが、横浜市は、戦後まだ復興途中で余裕がなかったからだとのこと。
たしかに、横浜市も、1950年代は財政状況は良くなかったらしい。
今は、昔の話である。