神保町で月1で行われている、まったりトークが今月は、両角康彦さんのご専門の「和算」だった。
中学の頃、NHKテレビで矢野健太郎が出ている数学の番組があり、そこで和算の関孝和の名を知って以来、和算には非常に興味があった。
もともと将来は、理科系に行くつもりで、矢野先生もいた東工大に行くつもりで小山台高校に入ったのだ。
だが、数学は対数が出て来て分からなくなり、化学はテストで10点台と言う有様で、理科系進学を諦めたのだ。
和算と言うのも、いろいろな定義があるようだが、両角さん定義では「江戸時代の日本の数学」だそうで、同時代の西欧のものと比較して遜色のない水準だったようだ。
歴史的に見れば、古墳時代には、あの壮大な陵墓を作るためには、正確な測量、図面、作図法、そして動員する労働力と材料の計算が必要だったはずで、すでに高度な数学的知識と思考があったことになる。
律令時代には、暦担当の「暦博士」と税金担当の「算博士」があり、民間でも「継子立て」という、一種の遊びのような数学ゲームがあり、それは『枕草紙』や『徒然草』にも記述されているとのこと。
そして、17世紀に和算の天才関孝和が出て、数学的著述を書くが、そこには方程式、幾何学もあったとのこと。
西欧では、フェルマー、パスカル、そしてニュートンが出ていて、それはほとんど同様で、まさに同時代的なものだったとのこと。
ただ、西欧にあって日本になかったのは、確率論とのこと。理由は、確率論が、数学者のパトロンだった王侯貴族が、博打での必勝法から導かれたのに対し日本では、そうした発想がなく、また鎖国で西欧の数学の展開が日本に入って来なかったためだそうだ。
江戸時代の和算は、和算イコール算額で、自分が考えた問題を額に書いて神社や寺に掲示して、争ったとのことで、これを研究している方は多いとのこと。それは、今でいえばネットでの記述とコメントになり、いつの時代も大して変わりがないことになる。
映画『天地明察』でも、正しい暦の作成と星の観測、測量法が描かれていたと記憶している。
明治になり、西欧の学問の導入で、和算も完全に消滅させられたとのこと。
ただ、近年の私立中学の入試問題には、和算的発想のものがあり、意外に根強く生きているのではないかとのことだった。
久しぶりに知的な興奮に満ちた一夜で、参加者はみな満足して終わった。