『微熱 愛と革命の日々』

先日、40年ぶりに会って飲んだ映画研究会の同期で、シナリオ・ライターの金子裕君に、「最近見た映画で面白かったのはないか」と聞くと、第一に推薦してくれたのが、このノルウェー映画。

これを見て、驚くのはノルウェーのような小国でも、1960年代後半には、毛沢東主義の過激派連中がいたこと。
普通の教師だった主人公は、町のセンター(福祉と文化のセンターなのか、図書館と医療施設が同居)の若い女医とできて毛派党員(多分共産党なのだろう)になる。
これが、ひどい連中で、全部で30人くらいしかいない。本当にそうだったのか、フィクションなのかは不明。日本の京浜安保共闘か、菊井良治の「赤衛軍」くらいの規模。
彼らは、毛沢東やベトナム人民に連帯し様々な行動を起こすが、誰も相手にしてくれない。
女医は医者のようなプチ・ブルジョワは良くない、労働者として働くべきだと繊維工場で働く。
皆、必死に労働者の味方になろうとするが、現実の労働者は、賃金よりも、王室のことを話題にしている有様。
彼らは、ついにゼネラル・ストライキを起こすが、勿論失敗し、組織は破綻し、リーダーの女医も自殺してしまう。

インテリが労働者に対してコンプレックスを抱くように仕向けたのは、ソ連共産党である。だが、指導者のレーニン、スターリン、トロッキーらが労働者として工場などで働いたことは一度もなかった。
それなのに、労働者を崇めさせるいい加減さ。まさに矛盾であり、宗教である。

この映画が優れているのは、こうした「革命的行動」を、パロディーというか、ほとんど冷笑的に描いているところである。
真冬の戸外で、主人公は女医とセックスしようとするが寒すぎて勃起しない。
すると女は言う。
「中国の労働者なら寒くてもできる!」
主人公が奮い立ってセックスすると、二人の歓喜に合わせて、チャイナ・メロディーが鳴り、桜の花びらが舞い落ちてくる。
大笑いした。
アジアでは、性は開放されていると思われているのか。
昔、日本人が北欧はすべてフリー・セックスだと思い込んでいたのと同じだろう。

改めて思ったのは、毛沢東思想の持つ、反西欧文明性、反近代性である。
毛の主治医だった李博士が書いた『毛沢東の私生活』を読んでも驚嘆するのは、その性的放埓さはともかく、毛沢東が、いかに19世紀的な無知と迷妄に支配されていたか、ということだ。大学等の高等教育も、西欧的文化も受けていない毛沢東が、日本の明治時代の老人のごとき迷妄に支配されていたのは当然だが。
だが、そこには、逆に現在のエコロジーやロハス思想、スロー・フード運動につながる反機能主義、反効率主義がある。
一口で言えば、無知蒙昧なのだが、逆に近代主義を嫌悪する者からは、ひどく魅力的に見えたのだろう。
そして、それは遠く西欧社会にまで及んでいたということなのか。

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