『花の別れ』


女優田村秋子の晩年とその死を、晩年に付き合いのあった豊田正子が記述した本である。未来社刊。
田村秋子は、昭和の名優と言われた友田恭介の妻で、共に文学座の創設メンバーだったが、友田は昭和12年中国上海のウースン・クリークでなくなってしまう。
彼女は、その後芝居をやめるが、戦後復帰し、舞台の他、ラジオ、映画に出るが、昭和30年代に引退する。今見られる作品では、木下恵介の『少年期』、市川崑の『こころ』等がある。

豊田正子は、言うまでもなく戦前に山本嘉次郎監督で映画化された『綴方教室』の作者で、戦後田村と会い、その後交際はなかったようだが、偶然に再会し、かなり親密な交際があったようだが、それについては余り記述されていない。
だが、70歳をすぎて田村は持病のリューマチがひどくなり、息子夫妻に迷惑を掛けたくないとのことで房総の老人マンションに入居する。
最後、田村秋子は77歳で亡くなるが、実に行き届いた手はずを自ら行って静に死んで行く。
まさに豊田によれば名女優の退場のようだったそうだが、偉いのは少しも世間的に騒がずに死んで行ったことである。
それは、戦前友田が上海で急逝したときもそうだったらしい。
友田が戦死したのは、当時大ニュースだったらしく、亀井文夫の『上海』にもわざわざウースン・クリークの場面があり、「名優友田恭介氏がなくなったウースン・クリーク」と徳川無声が解説するシーンがある。
そのとき、田村には新聞社から中国行きの誘いが随分あったと言う。
だが、彼女はマスコミの意図を察知してすべて断った。
「友田が死んだ地点に立つ田村秋子なんて言う写真を撮りたかったのでしょう、そんなのは真っ平ごめんですよ」と断ったのである。
さすが、昔の江戸っ子である。
こういう抵抗意識は、戦後の東宝の大ストライキのとき、「俺は別に共産党じゃないが、いじめられている者を助けるのは当然だ」と組合側に付き、東宝のスタジオから組合員が退去するとき、スクラムの先頭に立った五所平之助監督の心意気と同じようなものだろう。
強いもの、売れてるもの、偉いものには付かないというのが江戸っ子の身上なのだ。

田村のまさに凛とした生き方に相応しい死期のとり方であると感心した。
豊田正子の人生も実に起伏のある興味深いものだが、それはまた別に書く。

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