中核派(革命的共産主義者同盟中核派)の最高幹部の一人だった北小路敏が亡くなったそうだ。
北小路が、有名になったのは、1960年6月15日の全学連の国会突入のとき、指揮者だったことだ。
このときは、1月の岸首相の訪米反対の「羽田空港座り込み事件」で在京の幹部のほとんどが逮捕されてしまい、急遽京都の北小路を上京させて指揮者にしたのだそうだ。
さて、横浜市役所には北小路の弟が一般職員でいた。
同じ京都大学卒で、優秀な方だったらしい。
主に企画部門にいたが、最後は民生局にいて、よく憶えていないが確か次長級で退職されたと思う。部長にはなれなかったのは、有名すぎた兄の影響だろうか。
私も会議でしかお会いしたことはない。
さすがに顔はそっくりだったが、大変温厚で腰の低い、しかし頭の良い方に見えた。
北小路敏は死んだが、中核等の「過激派幹部」で自然死(病死)するのは珍しい。
中核派書記長の本多延喜のように、反対派(革マル派)から暗殺されることが多かったのだから。
そういう時代になったのだろうか。