1966年、松竹で坂本九主演で作られた作品、『坊ちゃんは』映画では4回作られているが、どれも評判は悪くないようだ。
それも当然で、夏目漱石の原作が良くできていて、主人公の坊ちゃんの他、他の人物の性格が典型的で上手くできている。
この後、1977年にやはり松竹で、中村雅敏主演で作られた後は、作られていないが、テレビでの夏木陽介、勝野洋、果ては森田健作に至る学園ドラマは、この『坊ちゃん』の変形であり、あるいは『青い山脈』のそれである。
山嵐は三波伸介、赤シャツは牟田悌三、野だいこは藤村有弘、校長のたぬきは古賀政男、マドンナは加賀まり子、うらなりは大村崑というなかなかの適役。
団子屋の娘が九重祐美子で、その弟で片腕の中学生は、可愛いと思っていたら、富松千代志だった。
ここで間違えていけないのは、漱石は、坊ちゃんのように単純明快で行動的な男ではないことである。
むしろ、マドンナをかすめ取ろうとする気障なインテリの赤シャツにこそ近いことである。
坊ちゃんのような行動は、漱石の願い、願望だったのだろう。だから、面白い小説になったのである。
坂本九は、大変上手く演じていると思う。
衛星劇場
コメント
『坊ちゃん』
「坊ちゃん」の劇場映画は戦前昭和10年の山本嘉次郎監督のものから全部で5回作られています。このうち私が観たものはやはり坂本九主演のこの映画で、他に部分的ですが丸山誠二監督池辺良主演のものを観ています。山本作品はまだ観ていませんが、岸松雄によると、主演の宇留木浩が大根でだいぶ山本監督をてこずらせたそうです。しかし、清の役に英百合子をあてているのはさすがと思います。
率直に言って私は今までに観た「坊ちゃん」は映画でもテレビでも満足したものがありません。なにより主人公への理解が浅いと思います。現在の東京理科大学の前身と思われる物理学校を「卒業」している主人公を落ちこぼれのように描くことがまず最大の誤りですが、清の解釈もなっていません。この松竹作品はよくまとまっていて娯楽性では優れていると思いますが、上記の理由で、理想の映画化とは言いがたいものです。この作品では、片手の無い生徒を誤って叱り「俺も無い頭をしぼって授業をやっているんだ、おまえも無い手を出してこたえてくれ」という場面は原作には無く、漱石自身ののたしか熊本の五高時代のエピソードを用いて脚色しています。東大医学部に保存されている漱石の脳は、通常の人より大きいそうですが、極めて優秀な頭脳を持ち大変な学識教養を持ちながら、はやとちりだった漱石の人間性は、「坊ちゃん」の主人公と変わることなく、漱石自身の分身といってよいと私は思います。この小説の深みを映画化できればそれは面白いものになると私は思いますが、現実、特に今の映画界ではとうてい不可能でしょう。私はシナリオも書きますが、この「坊ちゃんは」いずれ私の解釈でそれを書いてみたいと思っています。俳優は、すでに無くなってしまった人や適齢年齢を過ぎてしまった人でも、坊ちゃんと清については、私のイメージに合う人はいます。私はこの小説はそのような自分のイメージで楽しんでいます。
南原宏治のもあったんですね
松竹では、南原宏治(当時南原伸二ですが)、主演のもあったのですが見ていません。今では最後の中村雅俊のも見ていますが、これも面白かったと記憶しています。
坊ちゃんの性格は、漱石自身が反映しているにしても、彼の一種の願望のように私には思えますが、いかがでしょうか。
『坊ちゃん』
中村雅俊は、これまで劇化されてきたこの作品の主人公の解釈表現からは一見ミスキャストと思われそうですが、奥の深い人間性を感じさせる俳優で、私はまだ観てはいませんが起用した製作者の慧眼は感じることができます。
他に実現しませんでしたが昭和40年代の東宝で加山雄三の主演で企画が上がったはずです。エーッ!と思われるかもしれませんが、これも色々ととりようがあって面白いと思います。