立川談志が死んだ、75歳。
新聞の一面を飾ったのだから、幸運と言うべきだろう。
上野動物園のパンダが死んだために、扱いが小さくなった三遊亭円生に比べれば、強運である。
談志を最初に知ったのは、ラジオ東京の夕方の番組『東京ダイヤル』の「こゑんチャンのおしゃべり」だった。
当時の人気たるや大変なもので、高校のとき、ある都立高校の文化祭に行ったが、談志そっくりの語り口で、全く同じギャグを言う生徒が出ていて、大受けだった。
多分、当時の大学、高校生くらいが、同世代の人間として、自分を代弁してくれると思えたのが、談志だった。
戦後、出た落語家としては、確かに天才だっただろう。
何よりすごいのは、その好奇心の強さとジャンルの広さである。
1960年代中頃、一種のゲテモノ・ジャズとして結構人気のあった、ローランド・カークを題材にし、自分もコンサートに行ったことを話していたときには、「その新しもの好きは、相当なもんだな」と思った。
だが、1970年代以降は、食い違いが出たのではないか。
三遊亭円生の落語協会分裂騒動の本当の主役は、談志だったことは、今では明らかにされている。
さらに、三遊亭円生の次の会長に、自分ではなく古今亭志ん朝だと円生が言ったことから、落語協会から円生派への脱退をやめたのも、なんとも自分勝手なことである。
確かに、人気、実力、政治力等では、談志は、志ん朝、円楽をしのぎ落語界で最高だったとしても、組織を率いていく人徳はなかった。
その点では、円生の人を見る目は高かったと言うべきだろうか、あるいはただ単に談志が嫌いだったのか。
勿論、志ん朝、円楽にも人徳はなかったが。
今回も随分引用されている、「落語は人間の業の肯定である」というテーゼも裏を返せば、自分の傲慢さの肯定のようにも見える。
ある人の本で読んだが、貧乏な売れない落語家連中と、マージャンをやって少々のインチキをしても、彼らに勝ち堂々と金をむしり取るという。ギャンブルはそうしたものだと言えば、それまでだが、無慈悲なことは事実だろう。
その辺が、彼が直弟子以外から、尊敬されるようにはならなかった由縁だろうか。
勿論、人から尊敬される人間なんか目指していなかっただろうが。
SP時代、一番レコードを残したのは、桂春団治だと言われているが、LP,テープ、CD,DVDの時代になり、最多の記録を残したのは、談志が多分ではないだろうか。
その意味では、われわれはいつでも彼の芸に会えるのである。
これで、志ん朝、円楽、談志、円鏡の「四天王」の内、三人が亡くなったが、今回の立川談志の死でも、かつての月の家円鏡、現在の橘家円蔵の声が聞こえないのは、どうしてなのだろうか。
彼も体が悪いのだろうか。
一応、小ゑんチャンのご冥福をお祈りすることにしたい。