1961年、松竹を出た大島渚が最初に作った映画で、これを見るのは3回目。
最初は、1966年11月で早稲田大学映画研究会が、早稲田祭の事業として大隈講堂で上映した。
この時のテーマは、「戦後映画の総括」で、当時「映画芸術」編集長だった小川徹の講演があり、上映されたのは、大島の他、中島貞夫の『893愚連隊』、吉田喜重の『秋津温泉』、そして深作欣二の『誇り高き挑戦』の4本だった。
映画『飼育』は、当時上映されることがなく、担当の中村君が、新橋の事務所から缶を担いで持って来たが、「ひどく汚い事務所だった」と言っていた。
4本も上映したのは、今考えるとすごいが、多分4年生の梶間俊一さんや3年の小出さんらの企画だと思う。というのも私は、その頃は映研よりも劇研の方に重心が完全に移っていたからで、よく事情は知らないからである。
後に、東映で『かまきり夫人』『ちょうちん』等を撮って大いにバカにされた梶間さんだが、この頃は冴えていたのだと思う。
2回目は、数年前、川崎市民ミュージアムで、この時、この映画は渋谷実の『気違い部落』だなと感じた。
大江健三郎の原作の持っている寓話性とフェティシズムを完全に切り捨て、戦争末期山深い部落に落ちてきた黒人兵を巡り、部落の人間たちの争いをえぐり出している。
その中心にいるのが地主の三国連太郎で、妻の沢村貞子がいるのに、分家の娘との間に子供を作ったり、今は出征した若者の妻・三原葉子に手を出したりしている。
分家の婆あは岸輝子で、夫の山茶花究は、三國の家に毎日言ってタダ酒を飲むことしかしない。
数年前に死んだ脚本家で大男の石堂淑朗が、小作人島田屯の息子で知恵遅れで、これにも召集が来て
「コイツにも召集令状が来るようじゃ日本も終わりだな」と言われる。
事実、彼は前日に大酒を飲み、本家の東京帰りの娘を襲って「お前初めてじゃないな」
大島瑛子の娘は「当たりえよ、東京に好きな人がいたもの」と言い返す。
これがショックだったのか、石堂は逃亡し、兵隊のいない出征行列が行われる。
本家の使用人の浜村淳、島田屯、加藤嘉、さらに役場の職員戸浦六宏らの、それぞれのエゴイストぶりが非常に面白い。
唯一の例外は、東京から疎開で来た小山明子親子のみだが、息子は黒人兵を遊び半分に襲っている内に崖から落ちて死んでしまう。
最後、黒人兵は、村で様々な悪いことが起きたのはあいつの性だとし、三国連太郎が村人の総意を代表して鉈で殺してしまう。
戦争が終わると、なぜか石堂が戻ってくるが、酒宴で刀を振り回して彼も死んでしまう。
すると戸浦の役人、小松方正の警官も、村人も、すべて二人の死などなかったこととして無事終わるのである。
大島渚の映画では『日本の夜と霧』を典型に、インテリが互いの責任と失敗を暴き議論することが多いが、これはそれを庶民レベルで行ったもの。
脚本の田村孟のセンスであり、後の『白昼の通り魔』の先駆けとも言え、村人のエゴイズムが非常に面白い。
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