『氷の花火 山口小夜子』

ほとんど期待せずに、伊勢佐木町の横浜ニューテアトルに行き、この山口小夜子についてのドキュメンタリーを見ると非常に面白かった。

彼女が、西欧で日本人のモデルとして認められたのは、もちろんオリエンタリズムだが、それを逆輸入してモデルとして打ち出した資生堂はやはりすごい。

当時、化粧品メーカーのモデルは、みな白人の西洋人であり、美は西洋から来るものだった。

それを、切れ長で猫のような目の山口を自社の専属モデルとしたのは、非常に画期的なことだったと思う。

                                 

1970年代に、私はマックスファクターの新製品の販促イベントの企画に係ったことがあるが、彼らとその広告代理店には、西欧からの美しか頭にないように見えた。

この映画で初めて知ったのは、彼女が極めて繊細で敏感な感受性の持ち主であり、一種の芸術少女だったということだ。

遺品の本が、寺山修司、安部公房、三島由紀夫らなのは当然として、埴谷雄高の『死霊』まであったのには時代を感じてしまった。

彼女は、服を見て、着ると、そこから筋が見え、動きが生まれると言っていたが、要は彼女は思い入れの強い、敏感に物事から物語を感受できる人間だったのだと思う。

多くの演劇、映画、ダンス等を見ていたのも驚きで、山海塾も最初から見ていたようだ。

パリ・コレでの成功ののち、1990年代には、勅使河原三郎、山海塾、佐藤信らと仕事をするようになったのも、必然的で、本来やりたかったことに戻ったのらしい。

ここで描かれていないことに映画があり、黒木和雄監督の『原子力戦争』があり、はっきり言って失敗作だったが、今では彼女の姿が見られる貴重な映像になっている。さらに映画では、東由多加監督の『ピーターソンの鳥』があり、私は見ていないが、ぜひ見たいものだと思っている。

いずれにしても彼女が持っていた西欧性と日本的なものとのアマルガムは、強引に言えば、国際都市横浜で育まれたものである。

その意味では、彼女は美空ひばり、原節子らに並ぶ横浜が生んだ混合文化の一つだと言えるだろう。

ただ、この作品で、彼女は横浜元町のファッションンが好きで、あたかも元町や山手のお嬢様のように誤解されるように描かれているが、彼女は横浜でも港北の生まれ、育ちである。

誰から聞いたか忘れたが、綱島の地区センターで働いている男の人がいて、

「私の娘は山口小夜子ですよ」と言われたと聞いたことがあるからである。

別に港北が元町に劣るものではないが、誤解されると困るので、あえて書いておく。

おしゃれな映画を見た後、伊勢佐木町のリンガーハットに行き、皿うどんを食べて、東京に向かう。

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