タモリ倶楽部はそのたびにいろんな企画をやっているが、やはり音楽関係の時が面白いと思う。
土曜日の朝は、ニュースショーが右翼的な「ウェークアップ」しかないので、まずタモリ倶楽部の録画を見る。
この日は、現代音楽の「無理無理楽譜」で、菊池成孔らをゲストに迎えてのピアノ曲を再現した。
懐かしのシュトックハウゼンから始まり、クセナキス、ブゾーニらまでやったが、普通の人が見れば、「なにこれ?」だろう。
それは、現代音楽というものが、技術的な進化として作曲家たちが作ってきたからだと思う。
バッハ、モーツアルト、ベートーベン、ワグナーとは違うよ、という彼らの意識が技術的にしか考察されないのは、間違いだと私は思う。
音楽とは、当たり前だが、技巧の問題ではなく、最後は音として聞こえてきた時のもののことである。
簡単に言えば、現代音楽とは「不安の音楽」だ、と私は昔から考えて来た。
それは、現代音楽の創始者のシェーンベルクにあっては、世紀末の欧州の貴族社会と階級の崩壊、革命と戦争への不安だった。
さらに貴族社会の崩壊と労働者階級の台頭の中での知識人の没落の不安もあった。
その後、こうした不安は、二つの戦争を経て、戦後の米ソの核競争の時代まで続き、ウエ―ベルン、アンバン・べルク、ジョン・ケージ、そして武満徹らの傑作が生まれた。
だが、20世紀末のソ連崩壊により、こうした世界的な不安というものはとりあえず消え、現在は知識人の意識はどことなく曖昧な状態におかれていると思う。
この時に、どうしたものが、現代の音楽として表現されるべきなのか、これは非常に難しいことだと思う。