内部と外部では見方が違うものだ 日本映画界

昨日の午後は、東銀座に行き、松竹大谷図書館に初めて行った。

松竹スクエアの3階で、ここは昔は松竹の映画館が2館あったところだが、隣接の電通ビルと一緒にして建て替えたようだ。

大谷図書館は、松竹の創立者大谷竹次郎氏らが集めた歌舞伎などの資料を中心に、映画、芸能などの図書、資料、写真、書画などを収集・保存しているところである。

映画の雑誌を調べたが、驚くことに一番多いのは、アメリカのコロンビア大学である。

これは、大コレクターだった牧野守氏の膨大なコレクションを日本国内のどこもが引き取れず、海を渡ってしまったもので、実に悲しいというか驚くべきことである。

この日、調べたのは日本映画各撮影所で助監督らが出していた「シナリオ誌」で、一番有名なのは、松竹大船の「シナリオ集」だろう。

これは、高橋治を中心に、大島渚、吉田喜重、石堂淑郎ら、「国立大学出身助監督」が始めたもので(篠田正浩は早稲田だが、特別に入れられたようだ)、大島や篠田が後に自作映画のシナリオが掲載されていて、それを自書でも記述しているので、知っている方も多いだろう。

だが、実は松竹大船だけではなく、松竹京都でも出されていた他、大映東京、大映京都、東宝、さらに日活でもシナリオ集は出されていた。

多分、なかったのは、東映と新東宝くらいだろうと思う。

ここについては、日本映画監督新人協会にもシナリオが掲載されていた機関誌『映画新人』が出されていた他、雑誌『シナリオ』もあり、彼らはこうしたところに書いていたのではないかと思う。

そして非常に驚いたのは、松竹のは1987年まで出ていて、日活のも1964年まで刊行されていたことだ。

これで分かるのは、一般的には1964年の東京オリンピックを境目に、映画からテレビの時代になったと言われているが、撮影所の内部ではそうではなく、1960年代末まで、活発に創作活動は行われていたことだ。

さらに、1971年の日活ロマンポルノと日本ATGの興隆によって、日本映画界は1980年代までは、上昇とは言えなくても、それなりに活性化されていたことだ。

やはり、映画が完全にダメになるのは、1980年代中頃のレンタル・ビデオの興隆である。

それは、1989年正月昭和天皇が崩御された時、テレビがすべて皇室関係番組になり、飽きた人間がレンタル店に走ったと言われているが、確かにそうだったと思う。

1959年4月10日の皇太子(現天皇陛下)のご成婚パレードの中継がテレビを普及を促進させたと言われているが、皇室と日本の映画、テレビ等のマス・コミとは非常に関係が深いのである。

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コメント

  1. 月の罠 より:

     現在の松竹スクエアには、かつて「松竹セントラル」という大きなロードショー館、隣に一階が券売り場で2階に上がる「銀座松竹」、1回には前売り券や映画関連商品を扱う店舗もあって、地下には海外のポルノ映画(いわゆる洋ピン)専門館の「銀座ロキシー」(後に名画座になった)と、映画館が3つありました。
     それと松竹セントラルの裏に、ここは確か松竹の本社ビルでしたが、小さな試写室があって、1度だけ、ここで試写を見たことがあります。昭和52年9月30日のたしか封切り前日、山田洋二の「幸せの黄色いハンカチ」でした。山田洋二と高倉健という予備知識のみで、試写室もガラガラ。地味な映画だなあと思い、これが後にヒットして、その年のベスト1になるとは、そのときには思えませんでした。

  2. 松竹セントラルでは『ダーティー・ハリー』の3か4を見ました。
    銀座ロキシーでは「美空ひばり」特集を見たことがありますが、洋ピン時代の銀座ロキシーは多分入ったことがないと思います。
    当時の松竹系の洋ピンは、どこでしょうか。ジョイパックあたりでしょうか。あるいはもっと小さなところだったでしょうか。
    松竹というのは変な会社で、「一応ピンクはやっていませんとの建前で、東活も一応関係ない」との立場でしたね。

    『幸福の黄色いハンカチ』は、高倉健が従来と違う役柄とのことで、当初は皆戸惑いがあったのだと思います。
    桃井かほりと武田鉄也も、それまでとは違う役柄でぴったりだったので、山田洋次の役者を見抜く力は凄いと感心しましたね。

  3. 月の罠 より:

     松竹系は銀座ロキシー、新宿地球座(後の新宿ジョイパック1)、池袋地球座。東急系は丸の内東映パレス(現・丸の内TOEI2)、新宿東急(新宿ミラノ座の地下)でした。あの「ディープ・スロート」は昭和50年に東急系2館で上映され、日本でもヒット。殺人映画「スナッフ」なんてのも昭和51年にこの2館で大ヒットしましたね。あと当時ST(松竹・東急)チェーンという2番館のチェーンがあって、ここで洋ピンを普通の映画と2週交代で上映してました。東宝系にもあったけど、何チェーンっていったっけなあ?東宝系は洋ピンありません。
     武田鉄矢は俳優としての印象すらなかったです。海援隊がなんで映画に?という感じで。「金八先生」はその2年後ですから。テレビのワイドショーで「自分がなんでキャスティングされたのかいまだにわかりません」みたいなことを語ってたのを覚えてます。桃井かおりも当時は「前略おふくろ様」の恐怖の海ちゃんで、風変わりな役の多かった印象でした。そういえばこれ第1回の日本アカデミー賞作品賞でした。当時から「やめてよ」と思わせた賞のタイトルでした。黒澤明は「影武者」でノミネートすら拒否しましたよね。
     

  4. STとSYチェーンですね。松竹・東急と松竹・洋画チェーンですね。
    今は名画座としてリニューアルした横浜シネマリンも、SYチェーンで、『グリーン・カード』を見たことがあります。

  5. 匿名 より:

    割り込みます。1960年代後半から映画ファンになった者にとっては松竹系洋画系のSTチェーンと東宝洋画系のTYチェーンはよく通いました。たしか今の伊勢佐木町のオデオンビル(ドンキホーテが入っている)は以前は横浜松竹で1967、8年に二階席の前にスクリーンを設置してSTチェーンの洋画二本立てを上映していました。ここは3週に一回ぐらい洋ピンの二本立てを上映していて、たまに次週の洋ピンの予告編を見られました。大概、ロードショー落ちの映画の二本立てでしたが、たまにロードショーをしないで直接このチェーンで公開する映画もありました。たしかスプラッシュ公開と言っていました。ウディ・アレンの「泥棒野郎」やフランチェスコ・ロージの「総進撃」などです。洋ピンは松竹映配の配給が多かったと思います。TYチェーンは馬車道の東宝会館の中の横浜東宝シネマの1か2と横浜駅西口の高島屋の裏にあった相鉄映画によく通いました。特に相鉄映画はロードショー劇場並みの立派な劇場で「雨の訪問者」と「暗くなるまでこの恋を」の二本立てなどを上映していて大好きな映画館だったので1970年代になってムービルが出来たのと相前後して閉館になったときは本当にがっかりしました。

  6. YROOM より:

    名前を書き忘れました。

  7. オデオン座は今のオデオン・ビルではなく隣の今はマンションになったところでは?
    ここは多分、大正時代からあった館だと思います。経営者は変わり、戦後は接収されたりしたと思いますが。
    1960年代以降は松竹系で、『キャリー』、後には五社英雄の『2・26』などを見ました。
    オデオン座は、壊されて隣のビルの中に入ったのだと思いますが。

  8. YROOM より:

    オデオン座は歴史的な建物で「写真アルバム 横浜市の昭和」(いき出版)を見るとちょうど伊勢佐木町の交差点にその姿を見るとことができます。キネマ旬報社から出ている「映画館のある風景」に六崎氏というかつてのオデオン座の経営者のインタビューが載っています。米軍に接収されていた時にオデオン座の隣に横浜松竹があったと言っています。ただ前述の写真アルバムの昭和32年の写真には横浜松竹とあります。1970年の「影の車」以降の松竹作品を見たのがこんなに立派な建物だったかなあ、という思いです。むしろSTチェーンの横浜ロキシーのあったのがオデオン座の二階で、一階は別のテナントが入っていたのかな?今、マンションになっている所は以前は松竹系のロードショー劇場だった横浜ピカデリーです。一番よく行った映画館です。

  9. ご指摘ありがとうございます。
    オデオンの隣は横浜ピカデリーで、相当に大きな劇場でした。

    『キャリー』を見た時、ラストで全部終わって平静になりスローモーションになった途端、地中から手が出てきて地中に引っ張られて、女子高生が全員席を飛び上がりましたね、ギヤーと叫んで。
    すぐに夢とわかって大爆笑でしたが。