知り合いが、面白かったというので、池袋まで見に行く。
日暮里の古びたアパートに、キャバレーのホステス「いちよ」(寺島しのぶ)がいて、サラーリーマンの「アキヨシ」(柄本祐)が来る。
彼は、日暮里駅で別れた姉の幻想を求めている。唐十郎の作品の多くは、「妹探し」で、それは幻想なのだが、ここでは姉探しで珍しいなと持っていると、姉の「もろは」(寺島の二役)が姿を現す。いちよのヒモの男「大貫」(田口トモロウ)や町の権力者の甥の「かじか」(玉置玲央)などが入り乱れ、いつもの唐十郎の世界になる。
日暮里のキャバレーやビニ本など、今はない言葉が乱れ出る。
初演は、1982年の下北沢の本多劇場開幕のシリーズの1本で、この時は緑摩子と柄本明(言うまでもなく柄本祐の父親)で、演出は小林勝也だった。
この時は膨大に水が使われ、劇作家の斎藤憐は、水の使い方が粗雑なことを舞台監督がなっていないと批判していたものだ。
劇は、最後はアキヨシのいちようへの思いが幻想であることがわかり、姉のもろは、とも別れるところで終わる。
これは、唐にとっての、フェディリコ・フェリーニの映画『道』のような作品ではないかと思えた。『道』は、ジュリエッタ・マシーナに象徴される、戦後のイタリアの発展の中で忘れていった過去への追憶というか、贖罪であったはずだ。
唐にとっても、上野や日暮里は、子供時代の記憶で、それを過去のものとして追憶しつつ封じたようとした作品のようにも見えた。
唐十郎の芝居の感動は、一人称で役者から吐かれる幻想的な台詞だが、ここではあまり感動されなかった。
その理由は、寺島は勿論良い役者だが、この劇の役は彼女のニンではないからだと思う。
それは、緑魔子に当てて書かれた役を、寺島が演じるのは無理があったわけだ。と言って誰が良いとは私には言えないが。
東京芸術劇場 シアターイースト