こういう映画を見ると、「映画も見てみないと分からないものだな」とつくづく思う。
監督はポーランドのイェージー・カワレロウイッチ。
この日の午前に彼の1961年の『尼僧ヨアンナ』を20年ぶりくらいに見て、やはり筋は分かりにくく難しいなと思い、その監督の作品なので、さぞや難しいと思って見た。
ところが、実に明快な娯楽大作で、大変に面白いのである。通俗的な面白さだが、その裏には強い政治的メッセージがある。
古代のエジプトのラムセス12世の息子、ファラオは勇猛で、頭脳も秀でていて地方の遠征に出て、敵軍を破る勲功上げる。そして、砂漠の中で美しい女と会い、自分の妃の一人にするが、彼女はユダヤ人だった。
撮影はもちろん、エジプトで行われたらしく、当時はナセル政権の衰退期だったが、エジプト政府の絶大な協力があったのだろう、戦闘や群衆シーンの大群衆シーンの動員は凄い。
本当は、ラムセスは11世までしかないので、この話は架空の設定である。
ファラオは、賢明な人間で、ピラミッドなど無用のもので、人民の苦しみだけだと知っている。だが、宮廷は、寺院を司る司祭たちの知恵と経験に支配されていて、父の王といえども自由に政治ができるわけではない。
また、内部にはアッシリア人、フェニキア人がいて、リビア人の傭兵を抱えているなど、大変な国際的な構成の国になっている。要は、繁栄していた国には、世界中から様々な人間や文化が集まり、それがさら繁栄を作る出しているということだろう。こうした繁栄の循環のメカニズムは、現在ではアメリカが持っている活力の一つである。
父が高齢で死に、ファラオは王に即位し、第一夫人との争いなども起きるが、彼の「善政」を施そうして、まずは金食い虫の司祭と寺院を攻撃しようとし、国民議会への投票に掛けると、圧倒的に勝利する。
だが、暴徒と化した人民が寺院を攻撃した時、司祭たちの予言の通りに「日食」が起き、雨と嵐で人民は動揺し、またファラオもテロリストに攻撃されたところでエンドマーク。
1966年のポーランド映画は、この寺院と司祭は、明らかに当時のポーランド共産党のことで、彼らについての大変に鋭い批判である。
そうした政治的批判劇を堂々たる娯楽大作で作るとは本当に凄いことだと思う。
川崎市民ミュージアム
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