昭和天皇の戦争責任

昭和天皇の侍従の日記に、戦後の晩年も天皇が戦争の責任について悩んでおられたことが書かれていたことが発表された。

私は、昭和天皇の戦争責任はあったと考えている。理由は簡単で、大日本帝国憲法では、軍隊の指揮(統帥権)は天皇のみにあり、すべての戦争及び戦闘は、天皇の指示によって行われていたからであり、その結果負けたのだから、日本帝国陸海軍の指揮者としての敗北の責任は明らかである。

だが、政治的責任については、かなり微妙である。

というのも、立権君主としての天皇は、内閣が奏上してきた政治的決定を基本的には否定せず、裁可していたからである。例外が、満州事変の時の田中義一首相の報告で、昭和天皇が「話が違うではないか」と事件関係者の処分に疑問を呈したため、首相は恐懼に耐えず首相を辞職し、さらには命を縮めにる至ったからで、後に昭和天皇は「若気の至りだった」と反省している。

この君主が、部下の方針、決定を基本的に裁可するというのは、内閣等がきちんとし政治的に安定している平時には問題はない。

だが、戦争などの緊急時には重大な問題になる。しかし、昭和初期には、西園寺公望などの天皇の側近の重臣には平和志向の人間がいた。

だが、彼らに対しては、「君側の奸」として、本当は平和愛好の昭和天皇とは逆の、天皇の好戦性を側近の連中が妨害しているのだとの逆の偽情報が国民には流布されていた。

その典型が、2・26事件で、事件を起こした連中は、天皇は自分たちを支持していると思い込んでいた。だが、事実は全く逆で、事件を知ると「直ちに反乱軍を鎮圧せよ」と命令した。実に反乱軍の連中は悲劇的、いや喜劇的存在だったということになる。

一番昭和天皇にとって不幸だったのは、近衛文麿の存在だった。

彼は、まじめな天皇とは逆の享楽的な人間で、第一次世界大戦後のパリ講和会議に出た時の体験から、反英米派になっていて、同様の立場のナチスドイツに好意を持っていた。

彼は、非常に矛盾する男で、京大では左翼の経済学者河上肇の教えをうけ反資本主義的であると同時に右翼にも知合いがいて、さらに陸軍の派閥では、統制派とは反対の思想右翼的な皇道派の連中と親しかった。2・26事件で皇道派がパージされ、統制派が陸軍を支配するとこれを不快に思っていた。

欧州での戦争が始まると、英米側に付くか、ドイツに付くかの最大の問題が、三国同盟問題で、政治学者の五百旗頭によれば、

「歴史にイフはないが、この時日本がドイツとイタリアとの三国同盟を結ばなかったら、アメリカとの戦争は起こらず、日本は欧州の戦争には巻き込まれず、太平洋戦争へは行かなかっただろう」と言っている。だが、そうなるとどうなるのか。多分、中国との戦争は終わっていないので、1945年のドイツ降伏以後、日本は中国との本格的な戦争になり、植民地の朝鮮半島や台湾では日本への反乱、独立運動が起き、その時日本はどうしただろうかと五百旗頭先生は言っている。1950年代にベトナム、そしてアルジェリアの独立に苦慮したフランスと同じになったのではないかと言っているが、それも興味深い考え方である。

それはともかく、皇太子時代に英国にも行ったことがあり、科学者として英米と日本の国力の差を知っていた昭和天皇は、アメリカと戦争については反対であったことは間違いないだろう。

だが、中国との戦争についてはどのように思っていたのか、ここは依然としてよくわからない。

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