吉川潮の本を読んだ後、円丈の『御乱心』を読み返した他、落語、特に落語協会分裂騒動の本を読んだ。
落語とは、実に過酷な芸である。
一人で、脚本、監督、主演をしなければいけないのだから、古典の場合は、脚本はあるが。
独演会等を主催すれば、企画もしなければならない。
勿論、それだけに達成感や喝采の喜びは大きいのだろう。
世界的に考えても、脚本、監督、主演をこなした人なんて、オーソン・ウェルズとチャップリンくらいだろう。若いのでは、トム・ハンクス等のスタンダップ・コメディーの連中もいるが。
日本では、すぐには思いつかないが、森繁久弥は、その主演映画は実質的には、企画、監督、主演だったかもしれない。
そう考えると、優れた落語家など、なかなかいないということになる。
さて、落語協会の分裂、三遊亭円生一門による落語三遊協会の設立は、結局円生の性格と落語感の狭量さに帰結するようだ。
彼は、新作落語は認めず、古典落語一本だった。
林家三平を認めなかったと言うのだから異常と言うほかはない。戦後の東京落語界を盛り上げた最大の功労者は三平であるのは言うまでもない。
そして、円生をそのように狭量な落語感にさせたのは、本来は大衆芸能である落語を大芸術のように錯覚させた、周囲の批評家等々の罪であるのは言うまでもない。
立川談志が、4月に復帰するそうだが、平気だろうか。