『地獄のオルフェウス』

以前、2015年にシアターコクーンで大竹しのぶの主演で上演されたとき、私は、『ミュージック・マガジン』に次のように書いた。

 安倍晋三がアメリカ人だったら、「自虐劇だ」として上演中止を要望したにちがいない。差別と人種偏見、貧困、さらに性的抑圧と狂気など、「アメリカの負」が、これでもかと次から次へと出てくるからだ。テネシー・ウィリアムズを『ガラスの動物園』のような抒情的で詩的な作家と誤解している人には、異常に見えただろう。この劇は、1940年の処女作で不評だった『天使たちの戦い』の1957年の改作だが、評価は低く、日本での上演も少ない。(しかし、私がいた早稲田の学生劇団の劇研は、1965年に上演していて、この時の女優は、漆川由美こと井上遙さんなのだが、学生劇団がやるべき劇とは思えないが。1961年に文学座がやった時は、杉村春子と神山繁だったそうだ)

だが、テネシー・ウィリアムズは、通俗的な新派悲劇的な中にアメリカの病理を表現する劇作家であり、それが良く出ていて私は大変面白く見た者のひとりである。アメリカ南部の小都市、雑貨屋の女のレイディ(大竹しのぶ)が主人公。彼女はイタリア移民の娘で、禁酒法時代に、粗野な男ジェイブ(山本龍二)と結婚したが、彼は重病で病院に入院している。レイディには、かつて好きな男クートレール(久ヶ沢徹)がいたが、彼はレイディを振って名門の娘と結婚し、その反動で彼女は年の離れたジェイブと結婚したのである。彼女の生きがいは、昔父親がやっていたワインガーデンでの楽しい日々であり、今は店を雑貨屋からお菓子屋に改装することにかけている。店にはクートレールの妹で、良心的悩みから露出狂になったキャロル(水川あさみ)、絵を書くことに憑かれている保安官の妻・ヴィー(三田和代)らもやって来て、たまり場になっている。そこに蛇皮のジャケットを着た若者ヴァル(三浦春馬)が現れる。まるで地獄に降りた天使のように。レイディは、ヴァルの若さと魅力にたちまちに魅かれてしまい、ついには店に住まわせるまでになる。その時、ジェイブが病院から退院して、すべてを悟る。と同時に、レイディは、黒人に酒を売ったため、彼女の父をリンチ死させたのがジェイブであることも知ってしまう。最後、ジェイブの銃に倒れたレイディが、改装中の店のカーテンを引くと、そこは昔の葡萄園、遠くには月が光っている。蜷川幸雄もかくやの印象的な終幕だった。二回出てきて、意味のわからない呪文を唱えるインディアンの老人は、アメリカの負の歴史の象徴である。  

今回は、文学座のアトリエ公演で、レディは、名越志保、その夫のトーレランスは高橋ひろし、ヴァルは、小谷俊輔で、大竹・三浦・山本らに比べれば、派手さに欠けるが、文学座の俳優のアンサンブルは非常によく、大変に良い出来だった。演出は、松本裕子    

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