横浜市役所にいて

76になったが、40年横浜市にいたので、半分以上は市役所にいたことになる。
得たことは、いろいろあるが、中でも3年間区役所で福祉課長をやっていたことは大きかった。
「世の中にはいろいろな人がいるものだなあ」と思ったのは、この時で、自分は特に優れても恵まれてもいたとは思っていなかったが、

「不幸な人もいるものだ」と思ったのだ。なかに、男の子と、女の子の二人が障害者の家族がいて、父親は
「俺が酔っ払ってやったので、できちまった」と言っていて、工場の労働者だった。男の子は、かなりの重度、女の子は中度くらいで、彼女は小学校は、普通校に通っていて、自分の名前は言えた。
だが、数年後に町で会うと、父親は脳梗塞で半身まひ、だがその父を障害のある息子が支えて二人で歩いていたのだ。
また、重度重複の障害者団体の長の人で、映画にもなった有名な人がいて、私もそこの福祉法人の役員になっていたので、彼が書く詩集が送られてきた。
そこには、どうやら自分が妻を裏切って、他の女性と関係したらしいことが仄めかされていて、少し驚いたこともあった。

さて、私が最初に入ったのは、議会、市会事務局で、ここの古臭さには大変に参った。
特に庶務課は、20代は4人で、うち女性2人は共に妻帯者だった。私ともう一人のK君は、見るからに運動部の男だったが、20代で結婚し、なんんとその後すぐに死んでしまった。
彼が庶務課に来る直前の最初の旅行会はすごかった。
セク・ハラなんてものではなく、課長と係長が、裸で『鴨緑江節』を歌い踊るのだから、これには本当に肝をつぶした。
もちろん、裸と言っても、オチンポコは、両股で挟むのだが。まあ、「軍隊での芸なのか」と思った次第で、課長は一応早稲田の商学部を出た人だったのだが。
「なんて田舎の村役場に来たものか」と思ったものだ。

さて、横浜市役所にいて、よかったことといえば、優秀な女性職員に恵まれたことだ。
荒木田百合さん、二見尚子さん、杉原真紀子さん、田中典子さん、そして森岡朋子さんと楠本智子さんなど、どの職場でも私は部下に優秀な女性職員がいて、いつも助けられた。
いつも妻をはじめ二人の娘にいじめられている家庭とは、まったくの逆だった。
また、上司でいえば、多くの方が私が、市役所外で実はいろいろとやっていることを大目に見てくれて、見逃してくれたことは本当に感謝しています。
ともかく、いろいろあったけれど、結構楽しい76年間だったと思っています。

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