大変面白かった。
なにしろ話が面白いが、その上中村勘三郎が出ないのでさらに気分が良かった。
私も、二代にわたる中村勘三郎が、きわめて才能のあるうまい役者であることは、勿論認めるが、人をバカにした態度が嫌いだった。
それに対して、現在の中村勘九郎と七之助兄弟は、嫌味がなくて非常に良い。
原作は、河竹黙阿弥だが、驚くことに初演以来演じられたことがなく、歌舞伎では145年ぶりなのだそうだ。
講談や映画、大衆演劇では数多く演じられているので、これは意外だった。
その理由は、この話が、血統という血の問題を描いており、血統に係わりの多い歌舞伎界と抵触するためだろうか。
もっとも、日本人は血統の良い人が大好きで、細川護熙から鳩山由紀夫に至るお殿様首相がその例である。
逆に言えば、小沢一郎も二代目なので、そうした安心感も彼の人気にはあるのかもしれない。
映画では、阪東妻三郎が伊賀之介を演じる伊藤大輔監督の『素浪人罷り通る』が有名で名作である。
そこで天一坊は、片山明彦だが、この天一坊では、彼は一種の飾りで、むしろ主役は伊賀之介である。
新劇では、矢代静一の作で青年座が1960年代にやっている。
今回の脚本は宮藤勘九郎で、演出はコクーン歌舞伎のいつもの演出の串田和美、歌舞伎のテクニックを多用するが、音楽は下座音楽ではなく、クラシック、ロック、ブルース等を使う。
この辺が現在性で、多分串田は、若い頃の自由劇場やオン・シアター自由劇場ではできなかったことを、この舞台で自由に、存分にやっているように見える。
話は、元は享保時代の実話だが、歌舞伎のいつもの例で、鎌倉時代に変えられていて、源頼朝のご落胤と称する天日坊と伊賀之介の不思議な物語。
伊賀之介は木曽義仲の家臣で、天日坊は頼朝のご落胤では一緒になれないのではと思って見ていると、天日坊も実は、義仲のご落胤であることがわかる。
なんともいい加減で都合のよい話である。
だが、この因果物話と言うのは、私は、一種の不条理劇だと考えており、恐らく江戸時代の民衆は、人の世の中の不可思議さを、この因果物で感じたのではないかと思う。
役者は、ずいぶんいろんな畑から出ていたが、中では六平直政が最高に面白かったが、最後の立ちまわりにになると、歌舞伎出身者に到底敵わないのは仕方ないところだろう。
シアター・コクーン