映画『人間の条件』の最後の完結編、監督は小林正樹で、脚本は小林の他、松山善三と稲垣公一、主演は勿論仲代達矢。
今日、純粋に映画として見れば、第5部の、ソ連が参戦してきて、部隊がちりじりになり、仲代と川津祐介、それに諸角啓二郎が満州の荒野、ジャングル、野原を逃げる件が一番面白い。
まず、南下するソ連軍のトラック部隊を突破するサスペンスがあり、平原からジャングルに入ると上田吉二郎ら日本人避難民の群れに遭遇する。
満州に南方のようなジャングルがあるとは思えないが、映画なので良いだろう。
ここでは、飢餓で赤ん坊が死に、狂ってしまう母親の中村美代子の演技がすごい。
そこから、逃亡兵の清村耕治が加わる。清村は、劇団青俳の人気役者だったが、後に愛人問題で自殺する。
ジャングルを抜けると、残存兵力で「断固戦う」と豪語する将校石黒達也らもいる。あるいは、夜盗のようになってあらゆる悪事を働いている金子信夫もいる。ソ連参戦は、8月9日で、関東軍の組織的戦闘が終わったのは8月23日とされているので、このような残存部隊の散発的活動は9月頃まではあったのだろう。
その後、仲代らは、ソ連を完全に信じている友人内藤武敏に再会する。
彼は、早く投降すべきだと言うが、仲代は賛成しない。
彼らは、様々に満州を徒歩で行き、最後は開拓民部落に着く。
そこは、笠智衆村長以下の開拓民がいて、なぜか慰安婦高峰秀子もいる。
彼女と川津は、夜ベットを共にする。川津にとっては初めての女だった。
翌日、ソ連兵が進駐してきて、戦闘態勢に入るが、突如高峰が村の広場に飛び出て、そのために戦闘は起こらず、仲代たちはソ連軍の捕虜になる。
この5部は、言わば「グランド・ホテル」形式のドラマで、常に場面が変わって行くので大変面白い。
また、途中、岸田今日子、中村玉緒、高峰秀子らの女優も出ていて、映画的には変化に富んでいて面白い。
第6部は、ソ連の捕虜となり、鉄鋼場での梶の戦いになる。実際は、北海道の富士鉄室蘭で撮影したらしい。
ソ連のひどさ、言語が通じないもどかしさが梶の戦いになる。
さらに、今度は「アクチーブ」としてソ連の協力者、手先になって暗躍している金子信夫と再会し、金子から手ひどく復讐される。
最後、金子が川津を「使役」で酷使し殺害したとき、仲代は金子を便壷に沈めて殺し、収容所を脱走する。
そして、梶は新珠三千代の三千子が待っているところへと満州を彷徨し、雪の原野で死ぬ。
その死は、第3部で仲代が呟く、「短かった幸福、だが満人や朝鮮人の犠牲の上の幸福」というものに対する梶自身の自分への「懲罰」、中国人への懺悔のように見える。多分、作者の五味川純平、そしてこの作品に関った者の多くの心情だったと思う。
そして、今日的に見れば、この映画、そして梶の行動は極めてフェミニズム的である。
日本軍も、ソ連もどこも信じず、ただ妻の三千子のみを信じて行動する梶は、まさにフェミニズムの先駆である。
当時、1,000万部を越えるベストセラーとなったのには、そうしたフェミニズムの先駆的匂いがあったからではないだろうかと思った次第である。
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コメント
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朝鮮戦争と講和
フェミニズムもそうですがいちばん感じたのは全編を貫くヒューマニズム
弱者 被差別者(内務班の新兵 二等兵 弱兵 朝鮮人 工人 中国人 そして女子)への慈しみ眼差しです
これは戦後の「共産主義社会への幻想」とは何の関係もないものです
この映画はヒューマンドラマ(スケール)として日本映画史上最高の作品と思ふ者の一人
昭和40年代初頭東京在勤時渋谷(だつたと思ふ)で“全6部一挙上映”とよくあり弁当持参で9時間通しで見たものです
小学生時は「朝鮮戦争」と「全面講和」あるいは「単独講和」と喧しいときで空には戦闘機やB29の編隊が毎日のやうに北へ飛んで行くのを面白さうに眺めていた
クラスに朝鮮人も2~3人はいて日本人との別なく仲良く遊んだ
ただ登下校時白のチマチョゴリを着た女子を他クラスの男が「チョーセン チョーセン ○○スルナ」「オマエノカァーチャン ○○○」と囃しながら棒切れで追い石ころを投げつけていた
逃げ遅れた子は地べたにへたり込んでシクシク泣くのみで辺りに教科書が散乱していた
それは人が人に意地悪するのではなく人が家畜や犬畜生にする態度のやうに見えた
見ていた自分は思わず「おーいヤメロ」と両手を挙げて飛び出したい衝動に駆られたができなかつた(映画なら梶が出てくる場面である)
朝鮮人 中国人に対する蔑視 劣等国民視 迫害は根深いものやうに感じた
中国人を「チャン○○」「○○タ」ロシヤ人は「○ス○」等蔑みの言葉がまだ一部で聞かれていた
明治以来の戦前戦中を知らない者でも彼らに対する態度がどんなものであつたかは容易に想像がつくというもの
遊び仲間だつた彼らとの関係を妙な気分にさせられたのは卒業式の卒業証書授与式であつた
卒業証書は公文書であるからそれが当然だつたのだらうが・・・・・・
それまで「○田」「○本」「○山」と言い合つていたのがいきなり「キン○○」「ボク○○」「リ○○」と呼ばれ彼らも躊躇なく「ハイ」と答えていた(今風に「キム」「パク」「イ」ではなかつた)
以上は本州最西端の田舎町で少年時代を過ごした者の記憶の一部である