1970年11月末、大隈講堂裏のケイコ場で三好十郎の劇『廃墟』を見ていた。
『廃墟』は、敗戦直後の日本を舞台とする芝居で、日本人の戦争責任を追求した傑作である。
中で、長男役の男が
「今、市ケ谷では・・・」と言ってそのまま数秒間、絶句してしまった。
劇中の台詞は、「市ケ谷では東京裁判が行われていて・・・」と続くのだが、その11月25日の午後、三島由紀夫が市ケ谷の防衛庁に盾の会の人間と入り、そこで自殺したことが、すでに大々的に報道されていたからである。
この『朱雀家の滅亡』は、1967年に書かて、劇団NLTで中村伸郎、南美江らの主演で上演されたものだが、私は見ていない。
主役の朱雀経隆(国村隼)は、古代から琵琶の家元として天皇家に仕える家柄で、太平洋戦争末期は侍従長として天皇の側近を務めていた。
この朱雀は、「最後の元老」と言われ、戦前は後継総理大臣を天皇に奏上する役を務めていた西園寺公望をモデルとしているようだ。
琵琶の神の弁天様は女性なので、西園寺家は代々妻を娶らないことを家訓としており、朱雀経隆も、下女おれい(香寿たつき)を内妻としている。
彼は、東條英樹を思わせる不人気の武断派の首相を退陣させるが、同時に公職からも自分の身を引いてしまう。
この決意が妙なのだが、天皇の表情に「何もするな」との内意を得たからと言うのだ。
この何もしない、と言うのはこの戯曲のテーマであり、何もしないことで、彼の息子朱雀経広(木村了)は、海軍士官として沖縄を思わせる南島に行って死んでしまう。
また、おれいも、昭和20年の東京大空襲の際、防空壕に逃れるが直撃弾に当って死に、反して朱雀経隆は、一切避難せず、弁財天の社に篭って空襲を避け、生きながらえてしまうのである。
「何もせず、計らわず」が、古代からの日本固有の思想、国学の根本的態度であり、それはある意味で、天皇の存在自体が、何もしないことを本質にしているのである。
これに対して、彼の弟で、多少は裕福な皇族宍戸家に養子に行った光康(近藤芳正)は、兄と正反対で、常に現実の政治、社会、世相に順じて、いかに巧みに生きようかと腐心している。だが、得るものは常に大したことがない。
戦後、息子朱雀経広の許婚で、彼と結婚できぬままで死に別れた松永瑠璃子(柴本幸)が、朱雀経隆に対し、
「なぜ、あなたは何もせず、息子を死なせ、それなのにあなたは滅びずに生きているのか」と詰る。
そのとき彼は答える。
「どうして私が滅びることができる。
凮のむかしに滅んでいる私が。」
ここで三島が描いているのは、言うまでもなく「美しく滅びる」ことである。
息子朱雀経広が、海軍士官として沖縄送りになるとき、主人公の朱雀経隆は何もせず、むざむざ跡継ぎの息子を見殺しにしてしまう。
だが、彼にとって重要なのは、卑怯未練な策を弄して前線送りを逃れ、安全な任地に行かせるのではなく、慫慂として危険な任務につくことの美しい態度なのである。その美しさとためなら、その身が滅んでも良いのである。
だが、現実の三島由紀夫こと平岡公威は、兵庫県下の田舎で20歳の徴兵検査を受けた。
「頑強な肉体の農民の中なら、青白い大学生の平岡公威は、不合格になるに違いない」と父平岡梓は想像し、息子を彼の出身地である田舎で検査を受けさせた。
だが、期待に反し、三島は第二乙種で合格し、兵役に付くことになる。
ただし、軍医が、風邪による発熱を結核と誤診し無事即日帰郷になった。
このことは、三島にとって、晩年のこの時期まで、心に残る傷になったとようだ。
その意味では、この劇は、彼の父親論でもあるように思えて来る。
「もっと立派な父親であったら」と言う。
国村隼と香寿たつきは、堂々と台詞をこなし、近藤も卑怯未練な役回りを生き生きと演じていた。
ただ、国村も香寿も、いくら今は元気な高齢者の時代と言え、少々元気すぎる気はしたが。
芝居の後、渋谷の町に出た。
まさに有史以来日本が経験したことのない卑俗な繁栄に満ちた町並みだった。
滅んでいるのだろうか、これはすでに。
新国立劇場