ヘーシンクに押さえ込まれた男

1988年の秋、関内の横浜市役所の前のビルにあった、パシフィコ横浜の社長室から、一人の中年男が静かに出て行った。
「神永昭夫ですよ」
新日鉄から来ていた山中課長が言った。
「えっ、あれが神永なの」
小柄で物静かな男が、アントン・ヘーシンクに押さえ込まれ破れたとは言え、柔道日本代表の神永とは、到底信じられなかった。

1964年10月、東京オリンピックの柔道無差別級の決勝戦、ケサ固めで押さえ込まれて神永が完全に動けなくなり、
誰もが「ヘーシンクが金メダル!」と思った。
狂気したファンは場内に入ろうとした。
そのとき、ヘーシンクは、パッと片手を挙げて、男が畳に上がるのを止めた。
このとき、日本の誰もが「本当に負けた」と思った。
と同時に「柔道日本」が負け、柔道が世界のスポーツになった瞬間だった。
このときの彼の姿を、朝青龍に見せたいと思う。

ヘーシンクは、彼を指導した日本人・道上博の伝記を読むと、かなり貧しい境遇から柔道家となったようだ。当時、欧州の柔道は、上流階級のスポーツで、その中で頭角を現すのは大変だったらしい。
西欧のアマチュア・スポーツには、戦前から上流階級のサロン的性格があり、そのことは、近代オリンピックの提唱者がクーベルタン伯爵であることでも理解できるだろう。
今や、プロもアマもないのだから関係ないが。

以前、このブログでも『無法松の一生』の富島松五郎は、アマチュア規定違反」と書いたが、明治時代の日本のマラソン競技では、走ることを職業とする者、人力車夫、郵便配達夫などは、出場資格がなかった。
今考えれば、大変な職業差別だが。

ヘーシンクが、76歳で死んだが、神永昭夫は1993年に50代で亡くなられている。
多分、静かな死だったろう。ご冥福をお祈りしたい。

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コメント

  1. uhgoand より:

    出自のこと
    照夫ではなく昭夫(あきお)でしよう
    自分たち世代にとつては日本スポーツ史上忘れることのない人の名です
    ヘーシンクがそのような出自ではないか?とは当時も何となく感じはあつた
    地の果てのやうな極東に単身で来たことまたその後プロレス興行に参加したことなどなど・・・

  2. さすらい日乗 より:

    そうでした
    神永昭夫でした。