新国立劇場の「日本の戯曲 春から夏へ」の2本目は、井上ひさしの『雨』、演出は栗山民也、主演は市川亀治郎。
物語は、江戸の隅田川の橋下の釘拾いの徳(市川亀治郎)は、山形の紅花問屋の主人に執拗に見間違われられ、当初は否定しているが、自分もその気になって、奥州の平畠に行くことにする。
そして、本気で紅花問屋の若主人になったのは、若妻がひどく美しかったからである。
当初、これは誰か分からなかったが、永作博美だった。
その豪農の家では、たかお鷹、山本龍二、石田圭介らに仕えられて、紅花など何も知らなかった徳も、次第にその気になる。
その中で、徳を偽者と暴こうとする二人の男を、徳は殺してしまう。
だが、最後は意外な結果に陥る。
今度は自分は、「江戸のくず拾いである」と主張するが、その台詞尻が東北弁に訛ってしまい、偽者であることを証明できない。
ついには、釘で殺され、自害したことにされてしまう。
そこには、お城の重役から、紅花作りの農民までが、じっと彼の死を見守っている。
ここで井上ひさしが言っているのは、日本の社会の異端者を排除してしまう共同性の恐怖である。
「誰が徳を殺したのか」と言えば、日本社会の共同性である。
ここでは、農村社会を作っている共同性だが、これは後に天皇制になり、晩年の井上ひさしの劇は、すべて天皇制批判になる。
その意味では、この戯曲が、井上ひさしの大きな転回点だったのだろうか。
栗山民也の演出は、農民たちの迫力ある民謡や、松井るみの大型の美術等を駆使し、本来室内楽的な戯曲を新国立の大舞台に拡大することに成功している。
市川亀治郎は、父市川段四郎も地味な役が上手かったが、息子の彼も適役で、非常に手堅い。
他の、永作博美、たかお鷹、石田圭介らの役者も良い。
ただ、最後、徳が殺されるとき、紅花をステージの奥一面に敷き詰めていたのだから、その上で市川亀治郎を死なせれば、テーマもさらに明確になったのだと思う。
いつも栗山民也の演出で思うが、いまひとつ押しが弱い気がする。
いつも思うが、この劇場の観客はひどく冷たい、全く沸かないのだ。
観客教育の必要がある。
新国立劇場 中劇場