『たとえば野に咲く花のように』

2007年11月に、新国立劇場芸術監督鵜山仁の提唱の「ギリシャ悲劇シリーズ」の2作目として、これが上演されたとき、私はブログで以下のように書いた。

新国立劇場のギリシャ悲劇3部作の2作目。
作鄭義信、演出鈴木裕美、出演永島敏行、七瀬なつみ、田畑智子、大沢健など。
ギリシャ悲劇の「アンチゴーネ」を下敷きに、1951年の朝鮮戦争中の北九州、ダンスホールの女性と敵対する店の二人の男との叶わぬ恋物語。
永島は、あるダンスホールの女で朝鮮人の七瀬に人目惚れしてしまうが、七瀬は全く受け付けない。永島には婚約者田畑がいて、田畑には彼女に焦がれる永島の手下の山内圭哉がいる。
叶わぬ二組の恋が続いていくが、最後山内は永島に決闘を挑むが、なんと山内は、この恋の連鎖に何の関係もないダンスホールの客の大沢健を刺してしまう。
このとき、思わず私は、「なんと非論理的な」と思った。
これでは、悲劇は成就しないではないか。
悲劇とは、実は極めて論理的なものであり、主人公たちが死へと向かうにはきちんとした筋道が必要なのだ。
ここには、論理は全くなかった。
だから、悲劇は成立せず、最後にガダルカナルでの戦友を見捨てたことを心の深い傷として負っていた永島を七瀬は容易に理解して、結婚してしまうのだ。
鄭も鈴木もいかに非論理的であるかということを改めて実感した劇だった。

他の悲劇は、川村毅作、鵜山仁演出、佐久間良子、小林勝也などの『アルゴス坂の白い家』、土田世紀作、鐘下辰夫演出、土井裕子、純名りさなどの『異人の唄』で、この年では優れたものの一つだった。

         

今回行くと、前回は中劇場だったが、今度は小劇場で、その分芝居の密度は濃くなり、笑いもよくはじけていた。前回は中劇場でほろかったので、やや冗漫な感じがしたのである。

話は、前回と同じだが、永島敏行が主演だったこと以外私も忘れていたが、パンフレットを読むと演出の鈴木裕美もほとんど忘れていたのだそうだ。

今回気が付いたのは、ホールの脇に蓄音器があり、「オーバーザ・レインボウ」が何度も流される。だが、この蓄音機がラッパ型の手回し式なのだ。蓄音機は、昭和初期には電気式の電蓄に代わっており、そうした最新のメディアは、こうした歓楽街ではすぐに買うはずなので、電蓄でないのは非常に変だと思う。

さらに、役者が回転するSP盤を止める動作があったが、LPのプレーヤーのようにアームを横に動かすだけなのは、非常におかしい。

蓄音機の場合、手回し式では、止める時は、アームを盤面から上げたのち、向こう側に倒してアームを逆にするのである。

役者の誰も、この動作をしていないのは、演出以下、誰もSP盤の再生をしたことがないことがよく分かった。

今回は、ともさかりえ、黄川田将也、山口馬木也、池谷のぶえらによるもので、前回は永島敏行が突出していて、彼の悲劇のように見えたのに対して、今回はほぼ同じレベルの役者たちであったことが良かったと思う。

そのことで、野に咲く花のように、という戦後の庶民の一時代という主題が強く出ていた。

さらに、前回と大きく変わったのは、社会状況の変化で、2007年には「今更朝鮮戦争時代のことなの?」という感じだったが、今回は安倍政権下、安保法制など戦争の危機が身近になってきているからである。

その分、観客には大きな感動があったと思う。

新国立劇場小ホール

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