『書いて、恋して、闊歩して 作曲家・吉田隆子』  辻 浩美

吉田隆子の名を最初に知ったのは、評論家・村上一郎の本であった。村上は、久保栄の弟子だったので、久保のことの記述の中で、吉田隆子の名も出て来たと思う。

彼女は、1910年2月に軍人の父吉田平太郎・ヤスの5人兄弟の二女として東京の目黒に生まれた。

1910年と言えば、黒澤明も1910年3月であり、彼女は森村小学校にいたこともあるので、黒澤と一緒にいた可能性もある。

ただし、以前ここにも書いたが、黒澤明の場合は、父黒澤勇が、陸軍退職後に理事だった日本体操学校(日本体育大学)を、大正博覧会への出展の赤字の責任を取らされてクビになってしまい、小学校3年生で転校しているので、すれ違いかもしれないが。

吉田平太郎は、大変に裕福だったらしく、中将で軍を退役すると、満州に行ったとのこと。隆子は小学校のころからピアノを習っていたが、日本女子大付属高等学校を卒業すると、本格的に音楽の勉強を始め、またアテネ・フランスに通う。

そこで、久保栄の弟で画家の久保守を知り、中村伸郎らから、新劇運動へ近づいていく。当然、築地小劇場であり、後に久保守の兄・劇作家の久保栄と知り合う。

一方、隆子は経緯はよくわからないが人形劇団プークの代表鳥山榛名と許嫁であったが、これは彼女が画家の三岸好太郎と恋に落ちたことから、婚約を破棄する。

こうした昭和初期のモダンガールとしての派手で自由な行動と共に、彼女はドイツのみならず、菅原明朗らを通して近代フランス音楽なども知り、自分でも作曲する。

そして、1934年には、家庭の事情で運動から離れた関鑑子に代わって日本プロレタリア音楽同盟の支部長を務めた後、1935年に彼女は、「楽団創生」を作る。

この戦前期は、完全に左翼文化運動の一員で何度も逮捕されて、築地小劇場の劇音楽を中心になっており、同時に作家久保栄と恋に落ち、死ぬまで同棲することになる。

当時は現在とは異なり、日本にオーケストラも室内楽団も活発ではなかった。

だから、新作を披露する場と言えば、劇か映画、あるいはNHKのラジオ放送しかなく、左翼的立場の彼女たちにラジオは無理で、劇音楽に向かうしかなかったともいえるだろう。

この楽団創生も、創作曲の発表の他、ショスタコビッチやムソルグスキーの紹介などの成果を上げたが、彼女の拘留と大病で、1940年には活動を終わる。

戦後、文化、芸術活動が自由になり、彼女は自身の病弱さと久保栄との生活苦の中にもかかわらず活発に活動する。

また、関鑑子らと日本共産党の強い指導の下に、「うたごえ運動」が活発に行われるが、それに対しては隆子は、積極的ではなかったようだ。

久保栄の劇『火山灰地』の音楽をはじめ、組曲「道」などの創作。

その一番のハイライトは、1949年に開催された「与謝野晶子祭」で公演された歌曲『君死にたもうことなかれ』だろう。

日露戦争時に作られた与謝野晶子の「君死にたもうことなかれ」は、太平洋戦争の惨禍を受けた直後の日本の民衆に強く響き、受け入れられたにちがいない。

それをオペラに作りかえた1956年3月、彼女は46歳で死ぬ、ガン性腹膜炎だった。

その二年後の1985年3月、久保栄も病院で縊死する。久保は強度のうつ病だったようだ。

さらに、17年後の1975年3月、村上一郎も自殺する。

彼の講演は1970年代に何回か聞いたことがあるが、かなり奇抜なもので、桑沢デザイン学園での彼の授業を聞いた人の話では、授業中に突然能を演じたりするものだったとのことだった。

さて、本についているCDで、彼女の曲を聞くと、やはりフランスの近代音楽の影響が強いことがわかるが、作曲家として特別に凄い個性を持ったものではない。

以前、神奈川県立音楽堂でアルマ・マーラーの20歳頃の曲を聞いたことがあるが、吉田の作品も、アルマと同様の、ある種の「お嬢さん芸」的なところがあったのではないか、と言ったら厳しすぎるだろうか。

この本は、吉田隆子の生涯を知る上では大変貴重なものだが、個々の記述が浅くて、読み応えに欠けるのは、大変に残念である。

私は、どうしても横浜市図書館に比べて、県立図書館の貧弱さを書いてしまう。

だが、この本は横浜市図書館にはなく、県立で借りたものなので、こうした貴重な本を神奈川県立図書館が収蔵していることは、ここでは強調しておく。

 因みに、映画評論家飯島正は、吉田隆子の実兄であり、飯島が、伯父飯島の家の名をついだものであるとのこと。

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