歴史に決定的瞬間はもちろんあるが、それは普通は、その時とは分からずに通過してしまい、後のなってあの時が、実はターニングポイントの重大な時だったと思うものである。
著者の坂野潤治は、昭和史のその時を、昭和12年(1937年)の2月だとしている。
1937年と言えば、すぐに2・26事件とくるが、実はその1週間前の2月20日に衆議院総選挙が行われていたが、このことは私も良く知らなかった。
この選挙への経緯は、貴族院議員でもあった美濃部亮吉博士の「天皇機関説」排撃が不徹底だとして、軍部や大衆、新聞等に推された形で野党政友会が、岡田啓介内閣に不信任案を出し、首相がそれに対して解散をしたものであった。
この経緯も非常に複雑なもので、岡田内閣自体が、今日のような政党内閣ではないので、内閣不信任、解散の経緯も一度ではなかなか理解しにくいが、詳説されていて私も初めて戦前の政局の複雑さが分かった。
1932年の5・15事件で、犬養首相が殺されて、政党内閣が終了していたが、岡田首相は天皇の信任も厚く一応穏健な政策だった。
この選挙の結果は、第一党であった政友会が242から171へと議席を減らし、民政党は127から205と議席を増やしたのである。さらに左派の社会大衆党と無所属で実は社会主義者の加藤勘十、黒田寿男、松本治一郎ら4名も当選したので、22名と戦前にもかかわらず多くの当選者を出していた。ただ、麻生久を代表とする社会大衆党は、社会主義で、労働法政や福祉を求めるものだったが、同時に親軍であり、「広義国防」の軍拡を求めるという立場だった。
確かに、昭和恐慌以後の景気回復は、軍需景気によってなされたことは事実で、労働者の立場に立てば軍需拡張は正しいことでもあった。
これは、言うまでもなく戦後は、日本共産党によって「社会ファシズム」として社会民主主義者を戦犯とする根拠になる。
この辺は、政治学者伊藤隆によれば、戦時下の統制経済を支えた産業報国会には、労働組合幹部から転向した共産党員が多数いたというのだから、どっちもどっちで、要は全国民が戦争体制に動員されたのである。
そして、選挙の1週間後に、陸軍の青年将校によって2・26事件が起こされ、岡田首相は人違いで殺害されなかったが、重臣、軍人らが暗殺され、岡田内閣は総辞職する。
この時、最初に後継首相に当てられたのは、宇垣一成で、著者は彼に「平和と反ファシズム」を見出している。
さらに、一種の人民戦線的役割も見出しているが、これはないものねだりだと私は思う。
だが、宇垣は首相を辞退し、後継は広田弘毅となり、この内閣以後、戦争へと進んでいくことになる。
大変に興味深い問題提起があるが、記述が行ったり来たりするので、やや分かりにくい。
そして、実はほぼ同時期に、今は保守派に転じたらしい政治学者の伊藤隆の『歴史と私』も読んだのだが、彼と坂野潤治は、かなり親密だったようで、多くの方のヒアリングを一緒にやっている。
人間と言うものは、分からないものである。