石原裕次郎の最大の被害者だったが

松方弘樹が死んだ、74歳とはあまりに若いが、ガンの一種であるリンパ腫では仕方がないところだろう。

「この男も、石原裕次郎の被害者だったな」と思ったのは深作欣二監督の映画『恐喝こそ我が人生』を見たときだった。

よく見れば、彼はすごい二枚目で(実際には大変な色気もあるそうだが)、そのままロマンのヒーローを演じればよいのに、わざわざ汚れ役の不良を演じている。

これは、1950年代に石原裕次郎がデビューし、日本映画の二枚目男優が追放されて以来の、スター男優の宿命であり、その一番大きな被害者が松方弘樹だったと私は思う。

菅原文太や渡哲也のような、本来は美少年に属する者も、裕次郎の被害者の一人であると思う。

裕次郎が出る前のスター俳優は、いうまでもなく二枚目で、女性に甘く愛をささやく、上原謙を代表に、戦後でも鶴田浩二と三船敏郎はマッチョな面も持っていたが、基本的には二枚目俳優がスターだった。

だが、石原裕次郎が大人気を得てからは、ただ甘いだけの二枚目は不要になり、日活でも葉山良二は二線級に、三橋達也は日活から去ることになった。

松方は、父近衛十四郎の力もあり、若くして東映に入ったが、決して十分な場所を得ていたわけではない。

一時は、亡くなった市川雷蔵の代わりとして大映で、「眠り狂四郎」や「若親分」、「忍びの者」などもやらせられたくらいで、まあ不遇だった。

その意味では結構器用な役者だったともいえる。

1960年代で最大のヒット作は、『893愚連隊』と『恐喝こそ我が人生』で、どちらもチンピラの役であり、大スターではない。

その大物ではないところが、群集劇である『仁義なき戦い』でヒットしたのだから、世の中は皮肉なものである。

話は変わるが、日本映画から二枚目を追放したのが裕次郎の日活なら、同様に映画から美女を不要にしたのもロマンポルノであり、これも日活である。

そこでは脱げば誰でもよいので、美女はいらなくなったのであり、さらに美女の持つ不自然な芝居もなくなってしまったのである。

だが、映画は基本的に美男美女を見せるものであり、それは韓流の人気がよく示していると思う。

さて、たぶんずっと石原裕次郎の影響を感じていたはずの松方弘樹が、裕次郎の影から脱したのは、テレビのバラエティでのひょうきんさであり、これは本来的にまじめで紳士の裕次郎にはできないものだった。

いかに彼が裕次郎の影響下にあったかの証拠に、船と海への執着があげられるだろう。

ここでも裕次郎のヨットの代わりにクルーザーがあり、海釣りがあった。

これは元々本人が好きだったようだが、石原裕次郎の趣味の延長線上にあったものだと思う。

かつて仁科明子を奪ってわれわれを悲嘆にくれさせた憎い男だが、どこか憎めないのも松方弘樹の良さで、それは育ちの良さだと思う。

ともかくご冥福をお祈りしたい。

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