桃井かおりの演技から韓流スターへ

昔々、伊丹十三が「桃井かおりは、役と自分の間の距離を演じている」と言ったことがある。
桃井がどれほど自覚的であったは不明だが、かなり不定形な演技をしていたことは確かである。それが、従来の日本の映画や演劇の、型にはまった演技とはかなり異なるものであったことは間違いない。
そして、それは秋吉久美子にも共通するものであり、その背景には、当時の反新劇・アングラ・小劇場の演劇運動があった。
しかし、いつの間にかそうした型にはまらないというか、型を表現できない演技が日本の役者の主流になってしまった。演技の型は存在せず、「とりあえず手ぶらで自分自身を演ずればよい」という風になってしまった。

しかし、私はそうした「自然主義的演技」が大嫌いである。素の役者を見せられるのがとても気持ち悪い。
携帯電話の宣伝で、山崎優というタレントが「素の自分になれちゃう」と肯定的に言うのがとても信じられない。あれを作ったディレクターたちは一体どういう神経をしているのだろうか。
素の自分など、見せてもらいたくない。充分に化粧をして作られた演技をした役者こそ、私たちが見たいものである。
それは、最近の韓国人スターの人気を見ればよく分かるだろう。彼らは、彼らのルックスが整形であるのと同じように、かなり不自然な人工的な演技をしているが、そうした演技の「作り物性」こそ、実は世界の大衆芸能の本道であり、自然さや素直さを尊ぶ日本は異常なのだ。

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