父について


昨日は、父親の公的面について書いたので、私的なことについて書いておきたい。
父は、端的に言ってやさしい人であり、基本的には面白い、ダジャレ好きの大人だった。もちろん、親父ギャグだが。
ただ、1回目に脳梗塞で倒れた後は、口が非常に重くなった。
父の脳梗塞は、私とは違い「言語障害」で、身体の後遺症はなかった。
言語障害が残ったので、学校での組合との団交等で、思ったように反論できないのは悔しかったらしい。
また、父はかなり器用な人で、絵が上手いほか、大工仕事も結構やっていた。
その上に、戦後の食糧難の時代には、米も作っていたようだが、私が憶えているのは、野菜作りだった。
この辺は、さすがに農家の子供である。

父は、大田区の教育会では、結構なボスだったようで、人事異動へのためか、教職員からのお歳暮は結構あった。
だが、母に言わせれば、父が死んでからは、まったく来なくなったそうで、人間とは現金なものである。
また、学校を退職後は、区議会議員くらいにはなりたかったらしいとは、母の言葉である。
政治的には穏健な保守派と言うところだったと思う。作家では、大仏次郎が好きだったようなので、その辺だと思う。

また、父から受け継いだものは、子供たちが全員が芝居や映画好きがあると思う。
高校生の時に、父と一緒に東劇で六代目菊五郎を見たことがあるという長女は、未だに歌舞伎のファンで、母から受け継いだ歌舞伎座の株主で毎月見に行っている。
次女は、前にも書いたが、新劇のファンで、俳優座後援会会員だった。私も後援会の運動会に行ったことがある。
兄は、映画好きで、同時代のジェームス・ディーンのファンで、後に大船撮影所に出入りするようになり、岡田茉莉子とダンスを踊ったことがあると言うのが自慢である。1950年代の小津安二郎の愛人であり、アコーデオン奏者の村上茂子さんの楽器運びのアルバイトをしていたからだ。
三女の姉も、今は海老名に住んでいて、なかなか芝居も見られないが、地元の劇場に来たときは見に行くとのこと。
父が亡くなってすでに60年を過ぎ、また私も父の死んだ年をはるかに越えたのは、うれしいことで、医学の進歩に大変に感謝したい。

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