川田義雄、美空ひばりと続く歌の転換の上手さ

夜、神保町のらくごカフェで行われた、「ぐらもくらぶ 4回イベント 『ひば誕生』」を見に行く。
前回2月の「決戦下のジャズ」と同じく、SP時代のレコードを真空管アンプで聞こうというイベント。
解説は、佐藤利明と24歳の浅草オペラ研究家という小針侑起。

SPを真空管で聞くなどというと、なんと言うアナクロか、と思われるかも知れないが、本当に良いSPレコードを良い再生装置で聞くと、CDなどより良い音がするのである。
これは本当、特にポピュラー音楽のライブ盤は、完全にそうで、CDよりLP,LPよりもSPの方が、音がギラギラしていて現実の迫力がある。それは、SPの方がダイナミック・レンジが広く、また雑音までもきちんと録音、再生しているからなのだそうだ。
それに対して、CDは雑音をカットしてしまうので、スタジオ録音のクラシック等では素晴らしいが、ライブでは現実感が失われるのである。

5月は、ひばりの誕生月でもあるので、彼女が活躍した1950年代までは、SP時代だったので、SP盤を聞いて見ようというイベント。
まず、彼女が育った時代の音楽で、笠置シズ子の昭和15年の『ペニー・セレナーデ』と、戦後になるが川田義雄の『新新八木節』
川田の『八木節』がすごい、曲の中の場面、意味、構造の転換がすごい。まるで映画のカットが次々と変わり、リズムとテンポを畳み掛けて来るのだ。
それは、ひばりの昭和25年の映画とんぼ返り道中』の中の曲『あきれたブギー』でもきちんと受けついでいる。
ひばりのすごさは、歌の上手さもあるが、その転換、カット割のすごさでもある。
彼女は、昭和24、25年ごろは笠置シズ子と服部良一を追いかけてブギー路線だったが、昭和28年に米軍の日本占領が終わり独立時代になると逆に世界中の音楽を取り入れるようになる。
タンゴの『エルチョクロ』、米国人が作った進駐軍音楽の『ソバ・ソング』を基にした『チャルメラ・ソバ屋』、ハワイアンから50年代末には当時のロカビリーを扱った『ロカビリー剣法』まで。
最後は、1958年のジャズの名曲『上海』で終わった。
あらためて、1950年代の美空ひばりのすごさを再確認した。
佐藤さんによれば、ひばりのすべての公演の演出は、母親の下にあり、彼女の路線にあったのだそうだ。
本当は、彼女の弟である加藤哲也こと小野透は、実はいち早くビートルズを1964年に取り上げるなど、ポピュラー音楽に先端的なセンスのあった男だったらしいが、それは母親生存中は一切生かされることはなく、母の死後、1980年代にほんの少しひばりのリサイタルを演出したそうだが、彼もすぐに亡くなってしまう。
その意味では、実に不幸な女性だった。

美空ひばりの新宿コマ劇場公演は、1977年の『富士に立つ女』と1983年の『水仙の歌』を見たことがあるが、最高の歌とあまり感心できない芝居の2本立てだった。
どちらも劇の作・演出は沢島忠だったが、前者は『河内山宗春』のいただきで、後者は樋口一葉の『たけくらべ』が原作だが、十代でみどりと信如が別れては、劇にならないので、奇妙な後が付くものだった。
1977年のとき、興味深く思ったのは、第二部の開幕に遅れて来た若い女性客への彼女の反応だった。
「そうよね、若いOLは仕事が終わっても、お掃除や色々とやらなければいないことがあるのよね」と言った。
そのとき、私はこう思った。
「この人は、完全に昭和20年代の感覚でまだ生きているな」と。
その頃には、すでに民間企業でもオフィスの掃除等は社員ではなく、外部委託になりつつあり、お局様以下の年功序列で課内を掃除する等はなくなっていたのだから。

終わった後の交換会で、有名な芸能関係のSPのコレクターの岡田則夫さんに初めてお会いして色々話す。
岡田さんは、浮世節、別名女道楽の立花屋橘之助のSPを全部持っているとのことで、「是非CDで出してください」とお願いしておく。

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