トリフォーが死んだとき

1984年10月、フランスの映画監督フランソワ・トリフォーが亡くなった時、私はニューヨークにいた。

          
横浜市港湾局にいて、横浜港のポートセールス団を率いて、アメリカ東海岸をツアーしていた。
ワシントン空港からボルチモアに飛び、ボルチモアの港湾地区の再開発を視察調査した。
その後、ニューオリンズに行き、世界最大の穀物港であるニューオリンズ港湾局と穀物船では最大の船会社のライクス・ラインを訪問し、意見交換した。
その時、ニューオリンズでは万博の「河川博」をやっていたが、日本で言えば地方博程度で、日本からは笹川良一の船舶振興会のみが出展していた。
ニューヨークでは、今はない世界貿易センタービルのニューヨーク&ニュージャージー港湾局を訪問すると共に、当時ニューヨークが大々的に宣伝していたスタッテン島に行った。
ここは、島のほとんどが港湾局の所有で、光ケーブルを設備していて、ここをテレポートとして大宣伝していた。
このテレポートというのも、ほとんどインチキなものだったが、中には騙された人たちもいて、横浜でも世界テレポート会というのをやった。
今のネット時代では、ほとんど時代遅れになったのだが、こうした光ケーブル付きのエリアの再開発というのが当時頻りと言われたのである。
さらにニューヨークに本社のあるUSラインも訪問したが、これが山の中にあるのには少々驚いた。
さて、すべてが終わり、視察団の主要メンバーと港湾局長以下で、ニューヨークの日本人クラブに飲みに行った。
そこで、トリフォーが死んだことがテレビでやっていたよ、とクラブの日本人女性に言うと非常に驚いていた。
彼女は、日本ではアングラ劇団にいたのだが、もう一度本格的に演劇を勉強したいとのことで、アメリカに来ているとのことだった。
この頃の少しい前に、実は小説家リチャード・ブローティガンも自殺していたのであった。
そして、この時期、日本では、ナイジェリアのサニー・アデが来日していて、代々木体育館で歴史的コンサートをやっていたのだが、私は見られなかったのである。


この時は、「アフリカ年」で、外務大臣は安倍晋三の父安倍慎太郎だったのだが、今のアベちゃんは、アフリカの文化には興味はあるのだろうか、少々気になるところだが。

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