『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』 増田俊也 新潮社

この本は、先週渋谷のエルスールに行った時、原田尊志さんから、その面白さと戦前にいろいろあった柔術諸派の中で、講道館が主流になっていく過程が良く書かれているというので読む気になったのである。

この大著の著者は、反講道館派の柔術の方で、木村政彦の強さ、そしてなぜ木村が実力で遙かに劣る力道山に敗れたかを膨大な取材で明らかにしている。

1954年12月22日に蔵前国技館で行われ、NHKと日本テレビが中継したというテレビは見ていない。当時、家にはテレビはなかったからである。

その頃は、日本全国にも数千台しかテレビはなく、国民は街頭テレビや飲食店、電気店の店頭などに集まってプロレスを熱狂して見たのだ。

多分、翌年のことだと思うが、力道山・遠藤幸吉対シャープ兄弟のタッグマッチは何度か見た。池上の風呂屋久松湯の二階である。

このお風呂屋は、今もあるが、大変に新しいものを取りれることが巧みで、二階に舞台を作り、客を踊らせたりし、もちろんテレビも金を取って見せていた。

この店と私の家は関係があったので、店のご厚意でタダで見せてくれたのである。

それほど私はプロレスに熱狂はしなかったが、その後テレビが家に入れば、金曜日の夜だったと思うが、『ディズニーランド・アワー』と交互に放送されていたプロレスは中学くらいまでは大体見ていた。

吸血鬼フレッド・ブラッシー、マスクのデストロイヤー、さらに国際プロレスのビル・ロビンソンなど、結構見ていた。

さて、木村政彦だが、結局彼は「柔道バカ」で、事業家、企業家だった力道山とは天と地との差があったというべきだろう。

さらに驚くのは、力道山が自分のイメージを作ることに極めて巧みで、下のように多くの映画に出ているが、役者としても結構様になっていたことである。

昭和の巌流島と言われた力道山対木村政彦戦で、木村が負けたのは、この本が書くように、力道山が約束を破っていきなり本気でパンチを出したからである。

ネットの映像で見ると、力道山の右フックが木村の顎に決まり、それが致命傷になっている。

                 

さらに、著者が書くように力道山は、十分にトレーニングをして動きが軽く鋭いが、木村は二日酔いの上、当時はろくに訓練していなかったので、スタミナもすぐに切れてしまったのだろう。

だが、問題はそれ以上に、この勝敗でなぜ力道山は英雄になり、木村政彦は転落してしまったのか、の方が重要である。

やはり、それは1954年と言う時代の転換があったと思う。1954年は、戦後の本格的な始まりだった。

その時に、戦前に柔道の日本選士権を12連覇したという木村の戦前的な古さと、

戦後に古い相撲界を捨て、アメリカに行って新スポーツのプロレスリングを身に付けてきたという力道山の新しさの対比である。

私たち、子供は親しみをこめて「りきさん」とよび、池上の近くの馬込にあった豪邸にもよく見に行ったものだ。

だが、彼は実は非常にひどい男で、異常性格とでもいうべき人間だったのはまったく知らなかったが、イメージ操作は巧みだった。

勿論、朝鮮半島出身の在日であったことも当時は誰も知らなかったことである。

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