1960年代の日本の音楽は、モダン・ジャズの時代で、東京でも多数のジャズ喫茶があり、池上線の御嶽山駅にもあったのだから信じがたい。
駅からすぐ近くにあり、なぜジャズ喫茶を始めたのかはわからないが、主人は製薬会社のプロパー、つまり営業マンだったので、特に音楽に趣味があるとは思えず、恐らく奥さんが好きだったのだろうと思う。
結構広い店で、いつ行っても客はろくにいなかったので、自由にLPをリクエストして聴くことができた。
ある日行くと奥さんから「ビル・エバ、入りましたよ」と言われて驚いたが、私は結構聴いていたらしい。
ビル・エヴァンスですごいと思うのは、第一に音の美しさと独自さで、聴くとすぐに彼だとわかる。
後半はかなり退屈で、客が10人もいなかったクリス・マルケル監督の『イヴ・モンタン』が終わってロビーに出ると大混雑。
ビル・エヴァンスは、今も人気があるのか、特に女性が多い。
映画は、彼の1929年の生誕からきちんと追ってゆくが、ニュージャージーの高校時代、すでに彼は夜は、列車で近くの大きな町に行ってピアノで金を稼いでいた。
2歳上の兄ハリーも音楽が好きで演奏していたが、それはウクライナ系の母の影響が大きいようだ。
音楽大学を出た後、ニューヨークで様々なバンドを経て、1950年代末にはジャズ界で注目される若手になる。
多数のジャズメンの証言が出てくるが、ギターのジム・ホールの
「彼は、バド・パウエルとレニー・トリスターの中間」というのが正確だろう。
そして、非常に驚くのは、この20代後半の時期にすでにヒロイン中毒だったことである。
かつて、ベースのベストプレーヤーのスコット・ラファロを交通事故で失ったことが麻薬の原因と言われていたが、そんなものではないようだ。勿論、ラファロも麻薬中毒だったが。
そして、1962年にマイルス・デイビスのグループに入り、名盤『カインド・オブ・ブルー』をマイルスと共に作ることになる。
これがいかに優れたLPだったかが、多くのジャズメンから語られるが、確かにそうだった。
この時期が、日本でもジャズブームの頂点だったのは、やはり意味があったわけだ。
そして、1964年の東京オリンピックの年の7月にマイルスは来日するが、高校2年の私も新宿厚生年金会館で聴いた。
この時のLP『マイルス・イン・トーキョー』と『フォ&モア』は、1960年代に東京のジャズ喫茶に行くと一日に1回は掛かったものである。
1970年代には結婚し、子供もできて幸福な時期を得たこともあったようだが、兄ハリーの精神疾患からの自殺で、再び麻薬に落ちたようだ。
1980年9月麻薬による出血多量で死ぬ、51歳ということは結構長生きだったというべきか。
横浜シネマリン