古谷充男死去

先日、コンガ奏者古谷充男(ふるたにみつお)氏がなくなられた記事の中に、ドドンパの創始者とあったのが気になった。
勿論、彼はドドンパができたときの関係者の一人だったろう。
だが、特定の個人が音楽を作り出す、というのは世界のポピュラー音楽史を見てもまずありえない。
大抵は、ある社会的な文化や人種、民族の混合があり、そこで新しい文化が生まれ、その結果として、新しい音楽が生まれるのである。
ジャズ、タンゴ、ルンバ、サンバみなそうである。

例えば、「マンボの王者」と呼ばれたのはペレス・プラードだが、マンボも実は彼が一人で作ったものではなく、当時のアメリカのジャズとラテンのミュージシャンの競演の中で生まれてきたのである。

では、ドドンパはどうようにできたのか。
一般には関西、京都で生まれたとされている。
多分、1950年代の後半に、京都や大阪のジャズ、ラテン音楽の世界で、日本人のみではなく、フィリピン・バンドなど、様々な音楽家の競演の中で生まれたのだと思う。
アイ・ジョージや坂本スミ子ら、関西のラテン・ミュージシャンが取り上げ、全国的な流行になった。
ただ、ドドンパとしてのオリジナルな曲が多くなかっことから、流行はすぐに終わってしまい、リズムとしてのみ残ったのである。
ドドンパがフィリピンバンドと関係あるとういうのは、1960年代後半にインドネシアで、ダンドウットというよく似た響きの音楽ができたことによっても、そうだと思う。

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