国勢調査の利用法

夜、家に戻ると、国勢調査の袋が来ていた。
日本の国勢調査は、世界にもまれな優れたもので、1920年から5年に一度行われている。
これは、区役所では一大事業で、大変なのだが、それについては別に書く。
この調査結果を巧みに利用した国がある。アメリカである。

国勢調査は、太平洋戦争中も行われ、1940年に実施された。
1941年から始まった太平洋戦争中、アメリカは当初、日本の航空機製造工場などの軍事施設を爆撃した。
戦略爆撃で、東京の中島飛行機工場、名古屋の三菱重工工場等である。
だが、そうやっても日本の航空機生産は、米軍が思ったほど減らなかった。
調査すると、日本では飛行機の部品は、多数の下請け工場で作られ、最後の大工場で組み立てるという生産方法であることが分かった。
実際に、私の知り合いで、某大学にいた方も、戦時中は埼玉の田舎の町工場(農家の納屋の工場だったそうだが)、そこで飛行機の部品を旋盤等で作る作業に従事していたそうだ。

米軍は考えた、大都市の町工場を爆撃しないと、日本の航空機生産は落ちない。
こうして戦略爆撃から、大都市への無差別爆撃に変わった。もちろん、空襲による戦意の喪失もあった。
考えたのは、カーチス・ルメイ少将だった。
時あたかも、サイパン島に基地ができ、ここからB29が飛んでくることになった。
この時、アメリカ軍が活用したのが、国勢調査である。
彼らは、地図に縦横500メートルのメッシュ図を書き、そこに人口密度によって兆密なエリアを描き出したというのだ。
そうして、人口の多い所に、焼夷弾等の爆弾を徹底的に落とした。
もちろん、人道的には大都市への無差別爆撃は、ゲルニカと同じで許されないことだったが、最初にやったのは日本軍の重慶爆撃だった。
こうして、1945年の東京や横浜の空襲は極めて正確に行われたのである。
誠に悲しいことだが、また実に合理的で、科学的な戦法だった。
竹槍と神風の日本軍とは根本的な違いだった。
さて、この憎むべきルメイだが、戦後の1964年日本は彼に勲章を贈っている。
理由は、自衛隊の創設に功績があったからだとのことだ。

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