今から50年前に、浅間山荘事件が起き、さらに連合赤軍のリンチ殺人事件も明らかにされた時代だった。
この中の被告の一人に吉野雅邦ががいる。彼は、1948年1月生まれで、私とまったく同い年である。
彼は、大変な秀才で、番町小学校、麹町中学を出て都立日比谷高校に入った。
クラブは、音楽部だったそうで、オーケストラ部員だった田村光男とも一緒だった。
田村は、私の大学の劇団の友人で、ウォ-マッド横浜の制作をやってくれた。
田村も、東大を受けたが合格せず、劇団四季にいた後、早稲田の文学部に入って劇研にも来たのだ。
吉野は、東大と一橋にも落ちて、横浜国立大学経済学部に行く。
当時、国大は学部の統合が問題になっていて、その反対運動に吉野は入る。
国大の主流は、中核派だったが、吉野は、ブンドML派に属した。
ここのリーダーは、永田洋子で、前にも書いたが、彼女には私は一度だけ会ったことがある。
正直に言って、非常に不快な女性だった。
「あんな女性に率いられるとは」私には到底信じられない。
ブンドML派は、実は東京のブンド派では、中心だったのだが、関西派が上京してきた時、ML派から追い出される。
毛沢東主義が、問題とされたのだ。
そして、彼らは、日本共産党の中国派の連中と一緒になって、京浜安保共闘を作る。
その後、関西の赤軍派と合同して、連合赤軍を作ることになる。
そのリーダーは、永田洋子と関西の森恒夫で、どちらのリーダーとしての資質に欠けたことが、リンチ殺人事件を起こす。
さて、吉野だが、殺人事件にも関与しいるが、死刑ではなく無期懲役になった。
それは、彼が進んで自白をしたためで、これはオウム真理教の林郁夫被告の無期懲役とよく似ている。
林も、進んで自白したのだ。
吉野の千葉刑務所時代のことについては、厳しい批判があり、彼は刑務官に等に進んで迎合する「チンコロ」だったというのだ。
それは、連合赤軍時代にも、上の者の指示に唯々諾々と従っていた生き方と同様だとの言えるだろう。
吉野の父親は、三菱地所の重役だったそうで、これを基にした苑地文子の小説を映画化した小林正樹監督の『食卓のない家』があるのだが、見ることが出来ないのは実に残念なことである。