先月、亡くなられた元横浜市港湾局長小林弘親さんの「お別れ会」があったので、日本丸に行く。
夕方、5時過ぎに行くと、かつて港湾局で見た顔の方が沢山戻って来られる。
さすがに小林さんだな、と思う。
小林さんとは、私が港湾局に異動し、国際交流担当をしたとき、いろいろとお世話になった。
一番憶えているのは、ニューヨークにポートセールスに行った時のことだ。
9・11の世界貿易センターにあったニューヨーク・ニュージャージー・ポートオーソリティーを訪問し、中のスカイラウンジで食事した。
その後、当時横浜への寄航を増やす予定だったUSラインの埠頭を見学し、代表に挨拶する日程だった。
ハドソン川のコンテナ・バースを見た後、事務所に行こうとすると、「事務所はここにはないよ」と言われる。
驚いてファックスを読むと、事務所の場所は、確かにニューヨークの北部にある。
日本を出るときに十分確認しなかったのがいけなかったのだが、「船会社だから、港の近くにあるだろう」と思い込んでいたのが間違いだったのだ。
仕方ないので、至急日程を変更し、団長の小林さんと私だけが本社に行き、他の20人ほどの団員は、予定の他の港湾施設を見学することにした。
そのとき、小林さんは、決して怒らず、「場所だけは絶対によく確認しないといけないんだよ」と言われただけだった。
USラインの本社の場所は、ニューヨーク北部郊外の山の中にようなところだった。
ともかく本社に行き、通訳もいないので私の適当な英語で、代表に会い、用件は果たした。
本当に悪夢のような時間だったが、小林さんは終始穏やかだった。
アメリカまでに来て、怒っても仕方がないと思ったのだろうが、なかなか出来ないことである。
こうした人間性が、多くの特に技術者から大変慕われた所以なのだろう。
お別れ会で配布された経歴で、知ったことに、港湾局に来るまでに横浜市の多くの局、部を経験されていることを知った。
小林さんは、大正15年生まれ、関東学院中等部を出た後、陸軍士官学校に入るが、敗戦で早稲田大学に入り直し、理工学部を卒業し、昭和25年に横浜市に入庁された。
戦争から敗戦、そして戦後と多くの経験をされたことと思う。
やはり、そうした多くの経験をされたことが小林さんの大きさにつながっているのだと思った。
ご冥福をお祈りした。