昭和20年2月の松竹京都作品。
戦意高揚映画だが、複数の監督による役者が多数出てくるオムニバス映画。
林伊佐緒の「今日からは、しこのみたてといで立つ我は・・・」の情報局が募集し選定した、勇壮な愛国歌『必勝歌』の映画化である。
監督は、田坂具隆、溝口健二、マキノ雅弘、清水宏、大曽根辰雄、高木孝一、市川哲夫など。
昭和20年2月とは、レイテ戦などフィリピンの攻防は終わり、硫黄島やグアム島の戦いに移行する時期だった。今考えると、必勝どころではなく、敗北に向かう時である。一体どの程度の人が見たのだろうかと思うが、映画館のみではなく、工場、学校、さらに戦地等でも映画が上映されたらしいので、意味はあったのか。
この頃の作品には、ろくなのがないが、連日の空襲で映画どころではなかったのだろう。
実際、松竹大船撮影所なども、ほとんど劇映画は作らず、理研映画社が使用し、軍からの委託事業、航空撮影等をやっていたと、カメラマンの岡崎宏三さんの本にある。
南方の陣地で佐野周二が率いる小隊は、塹壕に潜んでいる。
総攻撃を前に、各自が改めて故郷を思うという設定で、国内の必勝に励む人々を描く。
高齢にも関わらず雪下ろしの動員に出かける農民大矢市次郎を初め、模型飛行機好きで少年飛行兵に志願した沢村アキオ(長門裕之)、空襲で防空壕に乳飲み子を背負って逃げ込んだ田中絹代。
見合い相手が急遽応召したため、結婚話を断って来たのに対し、「それでも結婚します」と言う高峰三枝子のけなげさ、軍人姿の上原謙や高田浩吉の美しさなど。
豪華な配役だが、オムニバスなので劇的盛り上がりはない。
もう映画作りどころではなかったのだ。
傑作だったのは、隣組長の口うるさい小杉勇で、家の前の防火用水に氷が張ってあるのをいちいち指摘し、自ら氷を割って廻る。
道端の防空壕を見て、「ご苦労さん!」と声を掛けるが、やはり気になりその上に乗り込むと、ずぼっとそのまま抜け落ちてしまう。
これを見た人は、笑えたのだろうか。凍りついたのではないか。
また、いきなり『お山の杉の子』を歌う女性ダンサー(OSKだろう)のシーンもある。
『必勝歌』のだが、1960年代に民青の連中が歌っていた「沖縄を返せ!」の『沖縄を返せ』のメロディーによく似ているが、関係があるのだろうか。
最後は、歌に乗せ、国内外で戦い、働く様々な日本人の映像。戦争のプロモーション映像であるが、そのひたむきさには驚く。
やらせの映像もあるが、多くの日本人がひたすら挙国一致して励んでいたことは間違いない。今のすべてが勝手で、バラバラの日本とは大きな違いであるが、その方が正しいのだ。これで良いのだ。
挙国一致など本来大嘘なのだから。
コメント
特攻
レイテ沖海戦 1944年10月23日~25日
必勝歌 公開 1945年2月22日
レイテ沖海戦で初めて陸海軍とも組織的に特攻が行われました.それを受けて製作された映画だと思われます.
雪国
一生懸命家の手伝いをしている子供に、『お前は身体が弱いから薬を飲んで、明日の仕事に差し支えないように早く休め』
と親が勧める.
雪で列車が不通になった知らせが来た.子供が出かけるというと、『お前は体が弱いから無理だ.身体を大切にしろ』と言い、父親は除雪作業に出かけて行った.
病院船の沈没
この話、敵の戦闘機が病院船を攻撃した出来事で、日本の戦争行為を正当化する話だと思ったけれど、そうではないようだ.
傷病兵が看護婦達に『自分達より貴方たちが逃げなさい』と言って、ボートに乗り移ることを拒んだ.
看護婦達は制服に着替え『自分達の職務を全うさせてください』と、傷病兵達に訴えた.
妹は招集が来た兵士のもとへ嫁ぐという.姉は戦地の夫へ手紙を書いた.
『.....まだ子供だと思っていた信江ちゃんが、しっかりした考えを持った.....それでは、お身体大切に』
仕事帰りの工員、酔っ払いのようだけど、電車に乗り合わせた人が『身体を大切にして下さい』と言って席を譲ってくれた.
航空兵になりたい子供に、『お前も立派に死んでこい』と、父親が言ったけれど、ふざけた言葉に受け取られる言い方だった.
『立派に死んでこい』が特攻ではない.
国民の皆が身体を大切にして、それぞれの職場で自分の仕事を完うすること、それが国民全てが特攻することであり、国を守ることだと、この映画ははっきりと言っている.
爆弾を積んだ飛行機で敵艦に体当たりすることが、航空兵の職務を完うすることかどうか?.
特攻という行為を真正面から捕らえて、人それぞれに考えさせるように描いた、見事な作品だと思います.
芙蓉部隊と言う、特攻を拒否した航空隊がありました.
この部隊は特攻の代わりに、多くの迎撃任務を行い、多くの敵機と交戦した結果、特攻を行った部隊よりも多くの犠牲者を出しました.
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戦争に反対する映画ではありませんが、特攻に反対する映画なのです.
隣組の組長が防火水槽の氷を割ったり、防空壕の出来具合を確かめるのは、職務を完うする姿.
学徒動員の子供が、軍需工場で鉢巻きを締めて、さあ頑張るぞ.女の子が工作機械を操っている.職務を完うする姿.
それに対するのは、特攻で死んだ兵士の遺族を集めた宴会.
『おめでとうございます』.....人が死んでめでたいわけがない.
病院船の看護婦の話は、職務を完うするということは、生きることなのか?、死ぬことなのか?、真剣に考えさせる出来事でした.
戦争が明るかった時代というのもある、と思います。新天地満州に、新たな生活を見出すことは、戦勝に調子に乗る軍人のみならず、開拓移民もまた、日本の勝利を信じて疑わなかったでしょう。日本は強国だったですし、戦前の楽観主義の極みである、大東亜共栄圏も、軍事的な反欧米同盟、という意味合いだけでなく、政治や経済的な独立、つまり、経済を梃子にしたアジアの共生、が考えられていたと思います。
当時の、アジアもエネルギッシュで、おそらく、植民地への進出や渡航というのは、他国への産業経済の拡張と言う意味で、愉しくて仕方が無かった、と思います。共栄圏は、戦争ではなく、経済発展と自立の為、日本が盟主とはいえ、その立場は、対欧米戦争というヘイトによって、アジアの結束を強める、のではなく、優れた政策であったと思います。
bakenekoさんが書かれているように、従軍する若者の生命が安い事、それは、戦争に希望を見出していた政府や軍人のみならず、国民もまた、覇権に対して、生命を賭して、惜しくない、という希望があったからだと思います。対米戦争がまだどうなるか、分からなかった時期には、国が、そうした、戦争に躍進の可能性を見出していたのでしょう。そして、戦争の後半は、厳しい現実が、戦争への希望を暗く覆っていたと思います。御国の為に、働く工員や女性というのは、特攻などの決死の戦地に向かう若者達を、いつも悲愴に送り出す立場であって、生命の重みを、雄弁に語らずとも、分かっていた良心のある人々だったと思います。全体主義的な風潮と相まるものの、国民の母親、という、高い意識を持った女性も居たのではないでしょうか。
形式的、原理的な父親は天皇。ですが、そうした、国家主義に対する反抗的な概念、或いは、国家主義の影響を受けていたとはいえ、個の国民がそうした、若者を本気で庇護する考え方を持ち、送り出して行った事にはドラマがある、と思います。
戦争が明るい時代だったとは、おおざっぱすぎます。
ただ、昭和6年の満州事変、そして翌年の満州国成立で、日本は「事変景気」になり、世界中で一番最初に恐慌を逃れました。昭和7、8年は好況で、エロ・グロ・ナンセンスの最盛期だったそうです。山口瞳の父も軍需工場で大儲けしたそうで、妾を囲ったほどだったそうです。
好景気は昭和15年まで続き、東京五輪と万国博覧会になるのですが、日中戦争の泥沼化で中止となり、代わりにやったのは紀元2600年というアナクロニズムでした。
要は、戦前の日本にはヒューマニズムはなかったわけで、当時西園寺公望も「結局、国民の教育水準が低かったんだね」と言っていたと思います。特に、明治以降の皇国教育の罪は大きかった。
天皇を父とするような間違いが戦前の最大の誤りでしょうね。国家は家族と逆立するというのが、現在の国家論ですから。
なるほど。エロ・グロ・ナンセンスの流行というのは、風俗産業とも並行すると思いますが、戦前の民の百家争鳴状態に対して、官から暗くなって行ったのでしょうね。風俗やエロサブカルが流行る、というのも、男性が自由だったという事でしょうが、家族主義が成熟し、男の仕事は家の為にする事、大切にする事が徹底していれば、愛情ではない、動物的な性欲の発散の場として、風俗に頼るという事も無くなる、と思います。
戦前の日本は、近代化に成功していたものの、文化、精神的には、西洋の借り物で、本当の成熟はしていなかったのではないでしょうか。天皇制や、その思想的な強化、というのは、戦争によって、国際化に失敗しつつあった事の裏返しでしょう。国家主義と家族主義というのは対立する一方で、戦後の核家族というのは、祖父母が居ない分だけ、夫婦の関係が、家族の連帯にとって、最重要となり、個人への比重が大きくなっていると思います。子供を作り、強固な家族を早く作る事でしょう。上の世代との疎遠というのは、下の世代、子供を多く持つ事によって、カヴァーされて、それにより核家族は親密になると思います。