先日行った横浜市歴史博物館で、前にやっていたのが、『紙芝居展』で、見に行こうと思いつつ、時期を逃してしまった。
売店にパンフレットがあったので、買ってくる。
なかなか興味深い内容で、紙芝居が出来たのは、昭和5年だそうで、その前の先行芸能として、覗きからくり、立ち絵、写し絵などがあったのだそうだ。
覗きからくりや写し絵は、江戸時代末期にあったはずだが、立ち絵というのは、初めて知った。
紙芝居より少し大きな舞台で、竹の串の先に貼った人形で芝居を見せるもので、明治時代中期には盛んだったらしい。
だが、基本的に一人で演ずるので、歌舞伎の知識など相当な技量を要し、紙芝居が現れると、それに押されて衰微したとのこと。
その意味では、紙芝居は文を読んで演ずればよいので、紙芝居は比較的容易に出来たようだ。
このパンフには触れられていないが、紙芝居には映画のトーキー化によって失業した弁士(活動写真の弁士)たちが流れ込んだのではないかと私は思う。
実際に、映画監督大林宣彦の回想によれば、戦後すぐの尾道は、空襲を受けなかったので、多くの映画館があった。だが、戦時中の統制と戦後の混乱で、上映作品が不足し、ときにはサイレント映画も上映されたそうだ。
その際は、普段は紙芝居をやっているおじさんが、弁士を勤めたとのことである。
戦後、紙芝居は大都市の下町で盛んになり、私が育った大田区池上でも、家の裏の空き地に紙芝居が定期的に来ていた。
親から、小遣いをもらえなかった私は、いつも「ただ見」で、肩身の狭い想いをしたことをよく憶えている。
その紙芝居も、テレビの普及で急速に衰える。
「電気紙芝居」と軽蔑されたテレビが、本物の紙芝居を駆逐してしまったのだ。
今は、電気紙テレビの全盛時代だが、それもインターネットに追い越されつつあるのではないか。