「退屈の押し売り」
新しく出来た神奈川芸術劇場の杮落し公演の一つのチェルフッチュの新作を見ての正直な感想である。
例によって、「これから何々について話します」との弛緩した語りで、幾つかの挿話が語られ、チンパンジーのごとき無意味な動作が繰りかされる。私は、前から猿芝居と呼んできたが。
また、「何々は、なんとかだが、実はこうで、その理由は・・・」と言う風に、主語、述語、形容の脈絡をなくして無意味にしてしまい、本心を見せない台詞もいつもと同じである。
作・演出の岡田利規は、充実した人生を願うが、それと同時に日常が重要だと言いたいらしい。
そして、岡田や平田オリザも以前書いていたが、現在の東京のような「祝祭的な」都市には、祝祭的、ドラマチックなな劇は必要ない、と言う。
本当だろうか、勿論そんなことはない。
今の日本では殺人事件が沢山起きているから、クライム・ノベルは要らないと言えるだろうか。
現実は逆である。
日本では、20世紀後半以降、一貫して殺人事件等の凶悪犯は減少しているのに対し、サスペンス、ホラー、ミステリー等の犯罪小説は近年益々興隆している。
演劇は、本来いい加減な表現形式なのだから、どのような表現をしても良い。でも、それが面白ければ、である。
これを面白いという人がいたら是非お会いしたいものである。
ただただ退屈、私の隣の若者は、1時間以上はしっかり寝られておられた。
エンターテイメントとは、結局は肉体の力、魅力になるが、ここには貧しさしかなかった。
また、この芝居のなかで唯一笑いが起きたのが、女がパーティーに呼ばれて、そこで変な男と日常性と人類の定住について話すところだけだった。
だが、ここでの笑いのセンスは、今テレビでやっている三流芸人のお笑いのレベルと同じだった。
だが、テレビ芸人よりも、岡田らは「われわれは、お芸術だ」と偉そうにしているだけ低劣と言うべきである。
ところで、どうでも良いけど、題名の『ゾウガメのソノックライフ』って、実際の表現とどういう関係があるのだろうか。
神奈川芸術劇場 大スタジオ