大震災の影響で、ついに計画停電が、今日の午後、職場がある横浜市栄区でも実施された。
予定の12時20分から20分経過した、12時40分に突然、照明、パソコン、テレビが消えた。
そして、3時35分、今度は一斉に点いた。
この間は、何か落ち着かず、通常の業務が上手くできなかったようだ。
だが、かつての昭和20年代では、停電は決して珍しいことではなかった。
ある日突然、停電になることもあり、台風が来たときなどは、必ず停電になったので、それに備えてロウソクや懐中電灯が一家には必ずあったものだ。
私の親戚は、東京の私鉄の駅前で大きな呉服屋をやっていた。
そして、そこにも停電はしばしば襲った。
だが、客商売であり、停電ではお金もよく見えないと言うことで、そこには停電用のガス灯があった。
停電のときは、ガスで灯りを点けるのである。
明治時代の初期の灯りはガス灯だったのだから、それは普通の技術だったのだろう。
どの程度使用したかは知らないが、店の天井をガスのホースが延々とつたわっていて、その先に大きなランプ状のものがあったことを憶えている。
いまどき日本で、停電とは驚くが、以前横浜の友好都市であるルーマニアの第二、都市コンスタンツア市の歌舞団を招聘したことがある。
丁度、チャウシェスク政権が倒れたときだったが、約10日ほどの滞在中、彼らが日本に来て一番驚いたのは、町に異常に点いている照明だったそうだ。
また、夜中までずっとやっているテレビも驚きで、通訳の女性に聞くと、連中は毎日夜寝ていないとのこと。
テレビが珍しくて寝ずに見ているのだそうだ。
その通訳をやってくれた女性は、父親がある民間組合の幹部だった関係で、ルーマニア政府から招聘されて留学したのだそうだ。
勿論、学費、滞在費は全部タダ。それが魅力で、それほど家に経済的余裕がなかったので、喜んでルーマニアの大学に行ったそうだ。
だが、行ってみて泣いたそうだ。
食い物がお話にならないくらいにひどい。生活水準が日本より遥かに低く、毎日泣きながら過ごしたとのこと。
亡くなられた米原万理氏が、やはり父親が日本共産党の幹部だった関係で、プラハの学校に留学していたのと同じであるが、そんな仕組みがあったとは知らなかった。
通訳の女性の経験では、1960年代のルーマニアは大変ひどい電力状況で、夜になるとすぐに停電になってしまうので、ローソクで勉強したそうである。
将来、今日本の首都圏で勉強している若者は、2011年にはローソクの光で勉強したこともあったな、と数十年後には思い出すだすに違いない。