1962年、松竹映画、企画は木下恵介で、彼の一番弟子松山善三のために考えたものだろう。
戦前、ハワイに移民した者たちの悲劇を描くもの。
大正の初め、移民船がハワイに向かう。
富士山を見て感動するので、神戸から出た船で、関西からの者だろうが、山口県だろうか。
そこには、教員だったが、教え子の高峰秀子との関係から地位を追われた田村高広夫妻、写真だけで結婚に行く久我美子もいる。
「写真結婚」は、ピクチャー・ブライドと呼ばれ、日本の未開性の証として、その野蛮性を問題にされたものだが、当時の日本の見合い結婚は、そのようなものだった。
彼ら日本人労働者は、当初サトウキビやパイナップルの農場で奴隷労働をするが、10年後、田村は日本語学校の教師に、久我は、写真の主の小林圭樹と結婚し、クリーニング屋で成功する。
初期の移民の老人三井弘治が言うように「わしたちのときはひどかったが、どんどん良くなり、息子たちの時代が楽しみじゃ」だった。
彼らには、早川保とミッキー・カーチス、石浜朗と桑野みゆきの子供もできる。
だがハワイで、安楽な暮らしができ始めたとき、日本とアメリカは戦争に向かってしまう。
二世だが、自分たちはアメリカ人だとして日本を批難する子供たちと、親の世代には大きな溝が生まれる。
昭和15年の「紀元2600年」の祝賀をめぐる息子の早川保との口論で、心臓に欠陥のあった田村はあっさりと急死してしまう。
その遺骨を持って、高峰秀子とミッキー・カーチスは、日本に戻る。
昭和16年12月8日、日本軍はハワイを急襲し、その中で久我美子は、死んでしまう。
高峰秀子とミッキーは、ハワイに戻れず、叔父加藤嘉の家で、「国賊、スパイ」と迫害されて生きて行く
加藤家の意地悪な小母さんが誰かと思うと、あの本間文子さんだった。黒澤明の『羅生門』の巫女など、黒澤映画の常連である。
戦時中、高峰が食い物を貰いに行く農家の親父が、陶隆(スエ タカシ)と脇役も、適材適所で配役されている。
石浜と早川は、二世部隊に志願し、出征の行進を桑野みゆきと小林が送ってゆく移動撮影がある。
明らかに木下恵介の『陸軍』のラスト・シーンを思い出させるが、これは明らかに松山の木下恵介へのオマージュだろう。
一方、日本でも次々に出征が行われ、加藤嘉の子で、高峰に好意的な桂小金治までが兵役につく。
ミッキーは、収容所に入れられるが、多分制裁で負傷して開放され、家に戻り、8月13日に栄養不良で死ぬ。
彼の葬列が進むとき、天皇の玉音放送が流れる。
戦後、村に米軍のジープが来る。
やって来たのは、米兵の石浜朗、高峰に会いに来たのだが、早川保の最後の手紙を持って来た。
彼は、すでに2年前にイタリア戦線で死んでいた。
早川と桑野は恋人同士で、二人の間には息子ができていた。
彼の英文の手紙が字幕で翻訳される。
「僕は、日本のためでも、アメリカのためでもなく、人類平和のために戦っている」のだと。
そして、この人類平和だけが大きな文字になっていた。
これは、この時期の松山を初め、ほとんどの日本人の総意だったと思う。
こうした平和ボケを笑うのは、おかしいのである、戦後の日本人の総意だったのだから。
そして、この憲法9条の平和主義は、戦後の日本の経済的繁栄の基礎となったのである。
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