『にもかかわらずドン・キホーテ』

文学座のアトリエは、椅子席になっていた。
椅子席になったのは、いつ頃からなのだろうか。以前は、木の床にじかに座って見たものだが。
別役実の新作は、ドン・キホーテをもとにした寓話的な作品である。
演出は藤原新平。

ある朝、金内喜久夫のドン・キホーテは、旅館のベッドに起きると、「自分が本当にドンキホーテなのか」疑問に思う。
部屋に入って来た田村勝彦の従者に、「お前はサンチョ・パンサか」と聞くと、彼も曖昧に答える。
ただ、「親分は、昨夜に明日は朝早く出かけるから、一番鶏がないたら起こせ」と言われたという。
だから、「今日は何か用があり、どこかに出かけるのでしょう」と聞かれるが、勿論ドン・キホーテにも分からない。

勿論、セルバンテスの小説『ドン・キホーテ』がもとだが、劇の構造は、デール・ワッサマンのミュージカル『ラ・マンチャの男』に近い。
金内も田村も、他の出演者も「自分は果して誰なのか」という問いを持ちつつ与えられた役を演じざるを得ないからだ。
ドン・キホーテとサンチョ・パンサの目的は、「不正を正すこと」なのだが、どこにどういう不正があるのか、まったく曖昧模糊としていて、またひどく矮小なものしかない。
アルドンサとドン・キホーテに呼ばれる女塩田朋子も出てくるが、勿論彼女は助けにはならない。

歩いていれば、目的地も分かるだろうと歩き始めると、鉄のオリに入れられた太った男に出会う。
この男と、例によって珍妙な問答があり、騙されてドン・キホーテは、オリに入れられたリするが、結局何も成果はなく旅館に戻る。

だが、旅館の亭主と女房は強欲で、ドン・キホーテを騙して、旅館の客に薬を飲ませる手伝いをさせる。
結局、客は死に、その原因は、旅館の親父夫妻(三木敏彦と赤司まり子)が、客を毒殺して金を奪う計画だったことが分かる。
そして、最後二人は、まるでドン・キホーテとサンチョ・パンサのように、風車を悪魔に見立てて突撃する。
本当に自分たちが騎士道譚の主人公になったかのように。
それは、この劇が『ラ・マンチャの男』から多くを得たことを証明している。

別役の劇の常だが、すべては、きわめて曖昧で、腹黒い陰謀も、ドラマもあったのか、なかったのかも不明で終わる。
それは、彼の劇が、何かのテーマを言うとか、感動を与えると言ったものではなく、見る者に何かを感じさせるものであることから来ていると私は思う。
ドン・キホーテとサンチョのわけの分からない問答に、現在の政治情勢の暗喩を見ることもできるし、全く無関係とすることも可能である。
また、飯沼慧の神父の言葉に何か意味を見出すこともできるかも知れない。
要は、見るものの関心のあり方が、劇の意味を決めるのである。

正直に言って、私はこういう寓話的な劇が苦手なのだが、別役実の世界の緊張感とユーモアは、極めて独自で、やはりすごいと言わざるを得ない。
それは、彼の劇作上の唯一の師であると思われるべケットの世界が、冷酷で、絶えず死のにおいがするのと正反対で、別役の劇には、ひどくとぼけたユーモアと現実の肯定がある。
帰りは、信濃町から品川まで、バスで戻る。このバスは、青山1丁目から西麻布、広尾、古川橋、魚藍坂、高輪と東京の古い町を通るので大好きな路線なのである。いつもの北品川の店には寄らずに横浜に帰る。
文学座アトリエ

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