吉国一郎氏、死去

元プロ野球コミッショナーだった吉国一郎氏が亡くなられた、95歳。
吉国一郎氏の酒脱な人柄を知ったのは、彼の息子からだった。

1960年代末、私は過激派大学生に指導された高校生組織にいて、吉国氏の息子、次男か三男だったはずだが、もそこの構成員の一人だった。
噂では、新宿の喫茶店に屯していたヒッピー集団からスカウトされたとのことで、慶応高校を中退させられて、成蹊高校にいた。
成蹊高校・大学は、よく知られているように三菱財閥が作った学園で、三菱重工社長牧田与一郎氏の息子で後に「缶ピース爆弾」事件を起こす牧田吉明も成蹊大学にいて、孤立して一人でいろいろな騒動を起こしていた。
吉国君も、お坊ちゃんらしい人の良い繊細な感じの高校生だった。
彼からはいろいろと面白い話を聞いた。

牧田氏は、三菱重工の社長だったが、当時三菱重工の長崎造船所には中核派の長崎社研という集団がいて、過激な組合運動をしていた。
それが、いつだか忘れたがあるストライキに失敗したことがあった。
そのとき、牧田氏は、息子の牧田吉明に向かって
「長崎社研とか偉そうに言っているが、大したことないじゃないか!」と豪語したとか。
これには、反中核派だった我々は、大いに笑ったものだ。
私は、大学に入ってからは学生劇団に深入りしたので、その後は党派とも疎遠になり、1970年代にはそこもつぶれた。
20年前くらいの噂では、吉国君は、どこかの広告代理店にいるとのことだった。

1990年代私はパシフィコ横浜にいたとき、吉国一郎さんと高木文雄さんの対談を企画し担当したことがある。
高木文雄さんは大蔵次官、吉国一郎さんは内閣法制局長官で、互いに周知の仲で、当時吉国さんは幕張メッセの、高木さんは横浜のコンベンション・センターであるパシフィコ横浜の社長だった。
「コンベンションの未来を語る」とのテーマで、帝国ホテルの一室で対談してもらった。
吉国さんは、当時NTTの顧問で、帝国ホテルの隣のNTT本社から歩いてお見えになった。
対談の中身は全く憶えていないが、対談の内容のレベルは非常に高く、コンベンション業界内でも評判は大変良かった。
さすがのお二人との評価だった。

言うまでもなく、吉国一郎氏には実弟の吉国二郎氏がいて、彼は大蔵次官を勤めた後、横浜銀行の頭取になった。
吉国一郎氏は、真面目一方だった弟吉国二郎氏とは対照的な方だったようであり、高木文雄さんもそうだったが、昔の国家官僚のトップはすごいと思ったものだ。
一度だけしかお会いしなかったが、日本の国の中枢の勤めきちんとを果たされた方のご冥福をお祈りしたい。

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コメント

  1. OZ@熊谷 より:

    いろいろ思い出しました
    さすらい日乗さんのブログを読んでいると、私の忘れていた記憶の破片が少し大きくなって蘇ってきます。

    重工の牧田天皇のお孫さんは小学校時代の遊び仲間でした。慶応の幼稚舎に通っていていかにもお坊ちゃんタイプ。同じ幼稚舎の先輩で、当時私の一の親友だったのが、指揮者外山雄三さんのご子息でした。このご子息が大変なやんちゃで、随分と悪いことも一緒にした記憶がありますが、どうも牧田君を気に入らないようで、随分とイジめていたのをよく覚えています。今と違うので陰湿ではなかったですが、牧田君の母親から「うちの子を遊びに誘わないで」と言われるぐらい、目の敵でした。

    今思うと、財界の大物の血と芸術界の大物の血の戦いだったのかと思うと、実に不思議な感じです。

    すっかり忘れていた幼少の1シーンを思い出させていただきました。ありがとうございます。